「マラン鉄道路線網(前)」(2025年09月26日)

マラン地方は1819年からパスルアンレシデン統治区の所轄に置かれていたが、192
8年にマランレシデン統治区として分離した。マランレシデン統治区はその最終段階でマ
ラン・バトゥ・パスルアン・プロボリンゴの町とマラン・パスルアン・ルマジャン・プロ
ボリンゴ4県の地域行政を統括した。

それより前の1914年4月1日にマランの町はヘメンテ(市長が統率する地方自治都市)
に昇格しており、1928年からマランレシデン統治区の首府になったようだ。プロボリ
ンゴレシデン統治区は1855年にパスルアン統治区から昇格分離したものの1901年
にまたパスルアン統治区に降格統合され、1928年にマランと共にふたたびパスルアン
から分離した。しかし1931年にマランレシデンの所轄に入り、最終的にパスルアンも
マランの所轄に置かれた。マランが政治経済面での地位を高めていった過程がそれらの変
遷の中に示されているように感じられる。

1879年7月20日、マランの町の中心部を南北に通っているクレレッストラアトに鉄
道駅がオープンした。今のスディルマン通りだ。その日からマランの住民はシゴサリへ、
あるいはバギル経由でパスルアンへ、更にはシドアルジョ〜ウォノクロモを経てスラバヤ
の中心部(スラバヤコタ駅)まで列車で行けるようになった。列車の運行は国有鉄道会社
Staatssporwegen (略称SS)が行った。

スラバヤのオランダ人たちは高原保養地だったマランへの交通の便が向上したために、マ
ランへ移り住む者が増加した。マランの町の西洋化は鉄道によって大幅に促進されること
になったのである。


それから20年近くが経過し、1897年に民間資本の鉄道会社であるマラン蒸気鉄道会
社Malang Stoomtram Maatschappij(略称MS)がマランの町の南方11KMにあるブルラワン
へ鉄道線路を敷いて列車の運行を始めた。SSのマラン駅から2キロほど南に離れたマラン
コタラマが始発駅で、11月14日からブルラワンまで列車が走るようになった。

MSはマランの町の南部で生産されるコーヒーや砂糖などの農園物産をSSの路線にリレーし
て輸出港に運ぶこと、またマランの町への農産物供給を盛んにさせるために農村部の商人
に交通の便を与えることなどを主目的にしてその路線を敷いたようだ。ダンピッはマラン
地方が誇るコーヒーの産地であり、トゥレンは米の産地だった。MSが建設した路線の近く
にはKebonagungやKrebet、またSempalwadak、Panggungrejoの製糖工場があった。

この事業でMSが大きい利益をあげていたことが窺える話がある。1925年に貨物運送で
得られた利益は718,242.44フルデン、乗客運送からの利益は278,341.63フルデンだったと
書いている記事がネット内に見られるのだ。一回の運行で列車の三分の二がコーヒー・粉
・豆・サトウキビでいっぱいになっていたそうで、貨物輸送がオランダ植民地における鉄
道の本分という実態がそこに明瞭に示されている。

製糖工場自身も農園から工場へサトウキビを運搬するロリーの線路を敷いたから、この地
方ではあちらこちらで線路が交差している姿を目にすることになった。鉄道線路の下を掘
ってトンネルを作り、ロリーの線路がトンネルを通るようになっている場所もあると地元
の鉄道愛好家は語っている。


ブルラワンからさらに南のゴンダンルギまで12KM区間が1898年2月4日に開通し、
ゴンダンルギから東に向けてタロッ、そして終着のダンピッまでの路線が1899年1月
14日にオープンした。本線が通らなかったトゥレンへの支線、またゴンダンルギから西
方のクパンジェンへの17KMの支線も後に設けられている。

ゴンダンルギから東のダンピッまでと西のクパンジェンまでの線路は1943年に日本軍
が撤去して運び去った。そして最終的にMS路線は1978年にすべて閉鎖された。

MSはまた、マランの町中に鉄道を走らせて市内交通の便を高めた。そのルートは次のよう
になっている。Malang Kotalama ? Malang Jagalan ? Malang Alun-alun ? Jalan Simpang 
Batu - Rampal - Lowokwaru - Glintung - Blimbing
[ 続く ]