「タンジュンプリオッ(6)」(2025年09月26日)

そのころ、タンジュンプリオッとコジャは私有地になっており、多数の地主が区画を分け
合っていた。次のような地主の名前を古い記録に見出すことができる。Hana birtti Sech 
Sleman Daud、Oeij Tek Tjiang、Said Alowie bin Abdulah Atas、Ko Siong Thaij、Gouw 
KimmirtそしてPattan。名前から受ける印象ではアラブ人や華人のように思われる。土地
は主にヤシ農園に使われていたと述べている情報もある。

ところで、コジャはその昔Kampung Kodya Tanjung Priokと書かれていて、タンジュンプ
リオッに包含される村だったように思われる。気になるのはKodyaと綴られていたことで
あり、元々は/d/の音が混じっていたものが癒着して/j/になった可能性がそこから推測で
きる。人種を示すKhojaの語尾の音節は完全なジャ音であって、/d/音は混じっていないよ
うに見える。

東インド政庁が新港建設熱に取り付かれたのは、オランダ本国の実業界が海上輸送の便宜
を改善するように迫ったからだという話もある。それまでただ呆れていただけだったバタ
ヴィア港の効率の悪さを改善するように民間の資本家たちが政府に要求するようになった
のだ。それはつまり、政庁さえその気になれば、オランダ本国から知恵と技術と金が建設
プロジェクトの中身を埋める状況ができあがっていたということになるだろう。

今はスンダクラパと呼ばれている旧バタヴィア港はチリウン川の土砂堆積によって海から
遠く離れてしまった。1699年にはボゴール南方のサラッ火山を震源とする大地震がバ
タヴィアを襲い、大量の砂礫が流れ込んだために水路が役割を果たさなくなった。西ジャ
ワの多くの川が似たような目にあったそうだ。

この大地震の原因について、サラッ山の噴火、噴火でなく地中で起こった地震、あるいは
山稜で起こった地滑りなどの諸説が語られていて、はっきりしない。その地震でバタヴィ
アのカリブサル東岸に建てられていた教会が崩れている。


チリウン川の土砂堆積は陸地をどんどん海の上に広げていった。その結果バタヴィアのカ
スティルの傍に設けられていたバタヴィア港が海からどんどん遠ざかり、海との間に水路
を設けて海とつなげることを余儀なくされた。長い水路に依存して、かろうじて海につな
がる港になっていたのである。

パサルイカン地区にある海洋博物館の駐車場近辺にMenara Syahbandarと呼ばれている3
階建て高さ18メートルのタワーがある。この建物はUitkijk Post(見張り塔)として1
839年に建てられたものだ。この塔が建てられた理由が、海上にいる船と港湾管理者の
間での連絡を信号旗で行うようにするためだったそうだ。バタヴィア港に入るために沖待
ちしている船との連絡がそんな方法で行われていたらしい。

しかし船が大型化するにつれて、大型船が狭く浅い水路を通って港に接岸するわけにもい
かず、沖合に投錨して乗客や貨物は艀に移され、水路を通ってパサルイカンに近い上陸場
までやってくるという非能率が行われていた。パサルイカンの対岸には税関や貨物倉庫、
そしてホテルなどが上陸客や出発客のために設けられていた。その状況はタンジュンプリ
オッ港が稼働するまで続いた。


1860年代にバタヴィア港を移転させる方針が政庁内で取り上げられ、いくつかの場所
でサーベイが行われてタンジュンプリオッに新港を建設することが決まった。そのために
政庁はタンジュンプリオッの私有地をすべて取り消して国有地に戻し、その土地を海運会
社Koninklijke Paketvaar Maatschappij 略称KPMに借地した。KPMがモダンな大型
港の建設と運営をタンジュンプリオッで行うように指名されたのだ。借地期間は1877
年から75年間になっていた。その後、KPMは1886年にミナンカバウのトゥルッバ
ユル港、1891年にデリのブラワン港を建設している。

KPMはオランダのいくつかの海運会社をそのプロジェクトに誘った。Burn Philip Line、
Rotterdamsche Loyd Ocean、および Nederlandsche Loyd Oceanがパートナーに誘われ、
かれらはジョイントしてプロジェクトチームを組んだ。言うまでもなく、チームは治安と
プリブミ労働力確保を保証するよう東インド政庁に要求している。それに応じて政庁はバ
ンテン・プリアガン・中部ジャワの各ブパティに対し、新港建設のための労働力確保に協
力するよう命令書を与えている。[ 続く ]