「マラン鉄道路線網(後)」(2025年09月27日) マランコタラマ〜ブリンビン区間はシティトレインの趣を感じさせる区間だった。なにし ろ、マラン鉄道駅からマランのアルナルンの北側に広がるオランダ人のエリート地区カユ タガンを通り、手工業地区ランパルチュラカッを経てブリンビンに至る6KMのルートに両 端を含んで8つの停車駅があったのだ。ブリンビンから東に4キロほどの距離にあるウェ ンディッはオランダ人に人気の高い行楽地だった。 ブリンビンから路線は分岐してひとつはSingosariに、もうひとつはTumpangに向かった。 ブリンビン〜シゴサリ6.3KM区間の開通は1901年4月27日 ブリンビン〜トゥンパン16.7KM 1901年4月27日開通 マランコタラマ〜ブリンビン6KM 1903年2月15日開通 ブリンビン〜トゥンパン区間は1968年、その他も1978年に閉鎖された。 かつてのジャガラン駅舎は今も存在しており、駅舎のプラットフォームの前には線路があ る。ところが駅舎は住民の住居になっているのだ。線路の上を通るのはプルタミナの石油 タンク貨車だけであり、客車はまったくそこへやって来ない。その近くにプルタミナの石 油デポがあって、インドネシア国鉄の機関車がプルタミナの石油運搬貨車を引いてそこを 出入りしているだけなのである。 ジャワ島の最高峰、標高3,676メートルのスメル山南西麓に位置するダンピッ郡はコ ーヒーの産地として有名だ。若き日のEFE ダウス・デッカーがそこにあった農園のひ とつで働いていたという話がある。このエルネスト・フランソワ・エウジェン・ダウス・ デッカーErnest Francois Eugene Douwes Dekkerはムルタトゥリの筆名で小説マックスハ フェラアルを書いたエドゥアール・ダウス・デッカーEduard Douwes Dekkerの姪孫に当た り、EFEにとってムルタトゥリは大叔父になる。 EFEはインドネシア共和国独立後に帰化してダヌディルジャ・スティアブディを名乗っ たオランダ系プラナカンで、インドネシアの民族運動に深く関わってオランダ植民地主義 の打倒に努めた人物だ。かれは1907年以来バタヴィア新聞Bataviasch Nieuwsblad の 記者と編集者を勤め、スワルディ・スルヨニンラ、チプト・マグンクスモの三人で191 2年にバンドゥンで政党「東インド党」Indische Partijを発足させ、バンドゥンではま たKsatrian Instituutを開いてプリブミ知識人の育成に努めた。 クサトゥリアン学院ではその当時珍しい日本語学習が取り上げられた。かれは白人に支配 されていない日本民族との交流がインドネシア独立に何らかの役に立つだろうという考え で、プリブミ知識人にそのためのツールを持たせようとしたように思われる。 東ジャワのパスルアンで生まれたEFEは若いころにダンピッにあるSoember Doerenコー ヒー農園で監督人の一人として働いていた。スンブルドゥレンという地名は他の地方にあ るがダンピッ郡にはないため誤情報と思われかねないが、ダンピッの町の中心部から南に 15キロほど離れている農園が1891年からその名前で操業していたという情報がオラ ンダにあるそうだ。 農園の所有者はHandelsvereniging Amsterdam(アムステルダム商業連合)で、スンブル ドゥレン農園ではコーヒーとゴムが生産されていた。 あるとき農園管理者と作業者間に賃金問題が発生し、管理者側が作業者側を抑圧する不公 平が行われたためにEFEが作業者側に立って管理者を批判した。EFEが即座に解雇さ れたのは言うまでもない。EFEは徒歩で農園を去り、その足でダンピッをも後にしたと いう話が遺されている。かれはきっと母親譲りの性格をしていたのだろう。 EFEの家系の解説は下のリンクの218ページ以降をご覧ください。 http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-97_Kopi_Nusantara.pdf [ 完 ]