「タンジュンプリオッ(7)」(2025年09月27日) バタヴィア港移転の決定はバタヴィア旧市街に軒を連ねていた貿易会社や運送会社に大恐 慌をもたらし、民間の諸企業が政庁の決定に抗議を表明した。そのころ、ひとびとはタン ジュンプリオッが遠い辺地であるという印象を持っていたのだ。あんな土地に港が移転す れば、われわれの事務所も移転しなければならないだろう。あんな所へ毎日通うのは大変 だぞ。ましてや、あそこはマラリアの巣窟と言われているではないか。 しかし植民地政庁が本国がらみで決めたプロジェクトがそんな抗議で止まるわけがあるま い。そして当の民間諸企業も結局は移転をしなかった。民間諸企業は従来のままバタヴィ ア旧市街のオフィスに居座り続け、社員を適宜タンジュンプリオッへ行かせる対応を採っ たようだ。 貿易会社や運送会社がタンジュンプリオッ港の傍へ移転しなかったのは、政庁が運河を作 ってプリオッとパサルイカンを結び、更に鉄道線路を引いて交通の便を向上させたからだ と述べている論がある。港の建設に合わせて1885年に鉄道線路がコタ駅から港まで延 ばされ、タンジュンプリオッ駅が埠頭への出入り口の位置に設けられた。この駅は現在の 巨大なビルの姿をしているタンジュンプリオッ駅と異なるものだ。現在のプリオッ駅は1 914年に建設が開始されている。 多分この鉄道開通のおかげでバタヴィア旧市街のオフィスを新港の近くに移すことが行わ れなかったのではないだろうかという気がする。だがもうひとつの運河の話は今ひとつピ ンと来ないのである。というのも、タンジュンプリオッとパサルイカンの旧バタヴィア港 を結んで水上運送が行われたという情報がまったく見つからないのだ。 VOCはバタヴィアの町を建設している時期に、城市を取り巻く水路ともっと離れた場所 にある川を結ぶ運河を作って治水効果を高めていた。そのころ、アンチョル川は3キロほ ど東を海に向かって流れ、現在のアンチョルドリームランド内プトリドゥユンコテージが 面している入江を河口にしていたそうだ。カスティルバタヴィアの北側の濠から東に向け て1650年ごろに運河が掘られてアンチョル川につなげられた。Antjolschevaartがそ の運河の名称だ。 現代ジャカルタ地図を見ると、アンチョルドリームランドの南を直線の水路が東西に通っ ていて、その形態から天然の川でないことが直観される。ところがなんと、地図にはその 水路がアンチョル川という名称で登場しているのである。このアンチョル川の西端はカン プンバンダンの手前で終わっていてパサルイカンまでつながっていない。また東端はプリ オッ港の少し手前で火力発電所南側の入江を形成しているジャパッ川につながり、そこで 途切れる。とはいえ、アンチョル川とジャパッ川はつながっているのだから、この水路を 通ればタンジュンプリオッ港の埠頭まで達することができるのである。 VOCが3キロほど作った運河がいつタンジュンプリオッの近くまで延ばされたのかはよ くわからない。新港建設プロジェクトがなければ、あそこまで運河を引き延ばすアイデア が出て来る必然性は考えにくいような気がするから、港の建設に合わせて運河を掘った可 能性は大いにあるだろう。ところが植民地時代以来その水運が利用されたという情報がま ったく見つからないのはどういうことなのだろうか? 確かにその運河を小さい帆船が航行している写真も存在しているから、地元民がその水路 を利用していたことはありうると思われる。しかしプリオッ港から乗客や貨物がそんな帆 掛け船でパサルイカン経由ヴェルテフレーデンへの往来を行ったとは考えにくい。 植民地時代のアンチョル運河の交通に関する情報は皆無であり、港とバタヴィア市内を結 ぶ交通は、鉄道を使わない場合はPriokweg(プリブミはJalan Raya Ancolと呼んだ)を通 る陸路がもっぱら利用されていたという話になっている。プリオッヴェフは19世紀に既 に存在しており、1920年に道路改修工事が行われた。インドネシアが独立してから道 路名称がJalan RE Martadinataに変えられ、その後プリオッ港に向かうコンテナトラック の増加に伴って同じ名前の高架道路に姿を変えた。 このプリオッヴェフに、怪異現象で有名になったアンチョル橋がある。その怪異譚につい ては拙著「アンチョル橋の美女」でお楽しみください。 https://indojoho.ciao.jp/archives/library02.html [ 続く ]