「JKT-SUBエクスプレス(1)」(2025年09月28日)

歴史上でジャカルタ〜スラバヤ間鉄道の旅はジャワ島の南北を一周する形で始まった。宗
主国オランダが植民地のオランダ東インドに対して敷いた鉄道政策によって生じた帰結が
それだった。東インド植民地の鉄道は現地で生産されている商業用諸物産を内陸部から輸
出港に輸送する役割を最優先事項にする。そうすることによってオランダ王国はより一層
の富と繁栄に恵まれることになるのである。

これまで牛や馬に引かせた荷車でわずかな量を農園から倉庫へ運び、河川交通があればま
だしも、そんな便の得られない地方では輸出港までの輸送ルートに溜まるストックが大き
な量に達していた。それをもっとスピーディに港に輸送すれば、販売できる商品の量は大
幅に増加する。オランダ人はその使命を鉄道に託したのである。

19世紀後半の自由市場と民間資本興隆という時代の潮流に従って、東インド植民地の鉄
道事業は民間資本にコンセッションを与える形が基盤に置かれた。しかし民間人が興味を
示さないエリアは国が補完するしかないのだから、国有鉄道会社も設立しなければならな
い。こうしてオランダ東インドに18の鉄道会社が林立し、それぞれの与えられたコンセ
ッションエリアで鉄道事業を行って儲ける者は儲け、失敗する者は失敗して国有鉄道会社
にその事業が引き継がれた。


農業生産量が最大で住民の開明度も進んでいるジャワ島が鉄道建設のトップランナーにな
った。上述の鉄道政策の原理に従ってジャワ島は西部中部東部に三分割され、それぞれの
地域にあるバタヴィア・スマラン・スラバヤという北岸の大型港と内陸部の生産地を結ぶ
鉄道路線のコンセッションが設けられた。インドネシアの鉄道は最初から南北方向のオリ
エンテーションを与えられていたのである。

その結果、バタヴィアとスラバヤを結ぶ鉄道路線はヨグヤカルタ〜ソロ地方でつながるこ
とになった。それも、1867年に東インド最初の鉄道運行が始まってから27年後の1
894年にやっと鉄道でバタヴィア〜スラバヤ間を旅することができるようになったのだ。
おまけにその旅は2社の鉄道を乗り継がなければならなかった。

Nederlandsch-Indische Spoorweg Maatschappij (略称NIS)民営鉄道会社
Staatsspoorwegen(略称SS)国有鉄道会社
がその2社で、両社は次のように路線網を敷いた。

1872年 スマラン〜ソロ〜ジョクジャ線開通 (NIS)
1873年 バタヴィア〜バイテンゾルフ線開通 (NIS)
1884年 スラバヤ〜ソロ線開通 (SS)
1887年 ジョクジャ〜チラチャップ線開通 (SS)
1894年 バイテンゾルフ〜バンドゥン〜バンジャル〜ジョクジャ線開通 (SS)

バタヴィアからスラバヤへ行くのにその各路線をどのように使わねばならなかったかと言
うと、まずバタヴィアからバイテンゾルフへNISで行く。バイテンゾルフからジョクジャ
までSSに乗る。SSジョクジャ駅からNISジョクジャ駅まで移動する。ジョクジャからソロ
へはNISに乗る。NISソロ駅からSSソロ駅に移動する。SSでソロからスラバヤへ行く。この
旅程は二日がかりだったそうで、ジョクジャまたはソロで一泊しなければならなかった。

バイテンゾルフ〜ジョクジャ区間があまりにも長いために、SSはバタヴィア〜カラワン〜
チカンペッ〜チルボン〜プルウォクルト〜クロヤ〜ヨグヤカルタというもっと東寄りの路
線を設けた。

この路線はバタヴィア〜カラワン線を運行していた民間会社Bataviasche Oosterspoorweg 
Maatschappij(略称BOS)をSSが1898年に買収して1906年にバタヴィア〜バンドゥ
ン間の運行時間を短縮した実績がベースに置かれていた。SSはその区間に設けたチカンペ
ッ駅からチルボン〜プルウォクルトを経由してクロヤに至る線路を敷設し、ジョクジャ〜
チラチャップ線につなげて1917年にこの路線を開通させた。しかし、それでも1日で
スラバヤに到達するのはまだ無理だったらしい。

ともあれ、この路線ができたことでそれまでの行程は多少とも改善された。バタヴィアか
らジョクジャまで一貫してSSの列車で行くことができるようになったのだ。しかしその先
は以前と同じであり、何も変わらなかった。[ 続く ]