「タンジュンプリオッ(8)」(2025年09月28日) タンジュンプリオッ港への交通は西側のバタヴィア旧市街との連絡路だけが設けられ、南 に位置するメステルコルネリスとの間にモダンな陸上交通路はまったく作られなかった。 海岸沿いの地区は東に向けて開発されていったものの、オランダ人は南に向かう開発を行 わなかったのである。 プリオッ〜コジャ地区の南にはポルトガル系メスティ−ソの子孫が作ったコミュニティの あるトゥグ地区もあったとはいえ、トゥグ地区とバタヴィア間の交通は川が使われ、トゥ グの住民は船で川から海に出ると沿岸を西に航行してバタヴィアに達していた。人間の通 れる道がトゥグからもっと南にある街道までつながっていたらしいが、バタヴィアへ行く には距離が水路よりはるかに遠かった。 バタヴィアから見て東方海岸部はブカシの北部まで南内陸部との間が密林・原野・湿地帯 で隔てられていたようだ。イギリス東インド会社のジャワ島侵攻軍はチリンチンに上陸し てから西に進軍してバタヴィア旧市街を占領し、ヴェルテフレーデンに攻め込んだあと軍 事都市のメステルコルネリスに向かうというルートを採った。チリンチンからまっすぐ南 下すればメステルコルネリスに達することを知らなかったはずがない。ところが軍勢の一 部を割いて直接南下させることは行われなかったように見える。 それは、そんなことをしてもいつメステルに到達できるか分からないという要因が考慮さ れた結果ではあるまいか。もちろん軍隊なら森林原野を突破できないはずがないだろうが、 本隊はヴェルテフレーデンを奪取してからメステルに向かうわけで、その挟撃作戦の成否 はタイミングが重要な要素になっていたはずだ。 今コジャ〜チリンチンの南部地域はもはやうっそうたる密林原野湿地帯でなくなっている とはいえ、広いエリアが国有地のままになっている。そこではプルタミナや電力会社PL Nがその広大な国有地を使い、あるいは保税工業団地が設けられ、大型工場が借地して操 業していたりする。一方で、住宅地はまばらにしかないし、農業用地としてもあまり使わ れていない。植民地時代は元より独立共和国になってしばらくの間、その地域は人跡の影 薄いエリアであったことがそこから推測できるように思われる。 南西からタンジュンプリオッ港に向かってやってきたREマルタディナタ通りは港の西端ま で来るとエンガノ通りにつながる。エンガノ通りは港の南端をまっすぐ東に向かい、港の 東端までやって来る。そこに南から北上してきたヨッスダルソ通りがつながるのである。 ヨッスダルソ通りは南のクラパガディン住宅地区西側を流れるスンテル川ともっと西のス ンティオン川を結ぶ運河を越えるとアッマッヤニ通りに名前を替えてジャティヌガラに至 り、ブカシ街道との立体交差点でパンジャイタン通りに名を替える。 パンジャイタン通りはチャワン交差点でストヨ通りになり、ストヨ通りはチリリタンでジ ャティヌガラ〜オティスタ〜デウィサルティカという道路名称になっている昔からのボゴ ール行き街道に合流する。 このタンジュンプリオッとチリリタンを結ぶ全長27KMの大型道路は昔からバイパスと呼 ばれてきた。今でこそバイパスという名にふさわしくない、大都市の中を突き抜ける大型 道路として都内環状自動車道の一部になっているのだが、1970年代ごろはジャカルタ 辺縁部を港まで走る、バイパスの名にふさわしい道路だった。その頃わたしはそのバイパ スを通るたびに、どうして植民地時代このような大型道路が作られなかったのか不思議に 感じたものだ。[ 続く ]