「JKT-SUBエクスプレス(2)」(2025年09月29日) SSはそのルートを一貫してスラバヤまで走り、一日で830KMを踏破できるエクスプレス 列車を1929年11月1日から運行しはじめた。そのためにジョクジャ〜ソロ区間をど うしたか?SSとNISは線路幅が違っていたために相互の乗り入れが不可能なのだ。 SSは自社が使っている狭軌のレール幅で線路をもう一本ジョクジャ〜ソロ区間に敷設し、 自社の列車が通れるようにしたのである。Eendaagsche Express(One-day Express)と命名 されたSSのエクスプレス列車は13時間半でバタヴィア〜スラバヤ間を走った。 一方、NISもスマランとスラバヤを結ぶ路線を構築した。スマラン〜ソロ〜ジョクジャ線 の中ほどにあるグンディ駅からチュプ〜ラモガンを経てスラバヤに達する路線を1903 年に開通させたのだ。 チルボン〜スマラン間はSamarang?Cheribon Stoomtram Maatschappij(略称SCS)という民 営鉄道会社が1899年から運行を開始していたから、1914年からバタヴィア〜チル ボン〜スマラン〜グンディ〜スラバヤという東西方向の旅が可能になっていた。 1899年 チルボン〜スマラン線開通 (SCS) 1902年 バタヴィア〜チカンペック区間開通 (SS) 1903年 グンディ〜スラバヤ線開通 (NIS) 1914年 チカンペッ〜チルボン区間開通 (SS) このルートを通る場合、バタヴィア〜チルボンはSSに乗り、チルボンでSCSに乗り換えて スマランへ行き、スマランからNISでスラバヤへ行くという旅になる。各鉄道会社間での 連絡が悪ければ、これも一日で踏破できるかどうかはわからない。 NISが設けたグンディ〜スラバヤ線はヨグヤカルタ〜ソロからスラバヤへ向かう方向性の 場合に好都合であり、スマランから来た場合はグンディまで南下した後またガンブリガ ンに北上してスラバヤへ向かうという不合理が発生する。 スマラン〜スラバヤ間の往復はガンブリガンからグンディへ南下しないままスマランと ガンブリガンをつなぐ方が都合が良いのだ。 その結果NISは最初に設けたソロ行きの次のルート: Semarang Tawang - Alastua - Brumbung - Tanggung - Kedungjati - Padas - Telawa - Karangsono - Gundih - の途中にあるブルンブンからガンブリガンに直接向かうルートを1922年に建設した。 Semarang Tawang - Alastua - Brumbung - Tegowanu - Gubug - Karangjati - Sedadi - Ngrombo - Gambringan - Jambon - Kradenan - Sulur - Doplang - Randublatung - Wadu - Cepu - Bojonegoro - ちなみに、1903年にグンディからスラバヤまで開通させたルートは次のようになって いた。 Semarang Tawang - Alastua - Brumbung - Tanggung - Kedungjati - Padas - Telawa - Karangsono - Gundih - Gambringan - Jambon - Kradenan - Sulur - Doplang - Randublatung - Wadu - Cepu - Bojonegoro - そんな状態でジャワ島は1942年の日本軍進攻と占領を迎えることになった。ジャワ島 を統治した日本軍政はオランダの建設したジャワ島鉄道網を嘲笑ったかもしれない。日本 軍にとってジャワ島の鉄道政策は重要な都市・空港・海港を結んで最短時間でその間を踏 破することだったのだから。 戦争をしている日本軍政がオランダ植民地政庁とまるで異なる鉄道政策を掲げたのは当た り前すぎることだった。オランダ人が最重要視して鉄道をその事業内容の中にまでからめ させていたサトウキビ農園や製糖工場を日本軍政は閉鎖し、そこに使われていた鉄道線路 を撤去した事実がそれを明白に示している。 ジャワ軍政監部の組織内に作られた陸輸総局が鉄道網を再編成した。広軌と狭軌が入り混 じっている線路のゲージを狭軌に統一し、各鉄道会社がそれぞれ自社のターミナル駅を作 っていたために同じ町に複数の駅がバラバラに存在していたのを線路でつないだ。 陸輸総局はジャワ島内のすべての鉄道路線を一貫的に使えるようにしたのである。線路が 続いているかぎり、ひとつの列車がどこへでも行くことができるようになった。おかげで そのときにジャカルタ〜スラバヤ鉄道の旅は現在インドネシア国鉄が行っているようなも のになった。[ 続く ]