「タンジュンプリオッ(9)」(2025年09月29日)

このジャカルタバイパスはJFケネディ大統領の時代に米国の援助で建設されたものであり、
1963年10月21日にスカルノ大統領がオープニングを宣した。国土建設のために米
国がインドネシアに援助を与えた例はまったく寡聞であるにもかかわらず、米国がこの道
路建設を援助したという事実に耳を疑うひともきっとたくさんいることだろう。これには
政治がからまっている。

1958年2月に西スマトラ州の政治家と軍人が地方分権と地方自治を要求してインドネ
シア共和国革命政府Pemerintahan Revolusioner Republik Indonesiaを樹立した。これは
中央政府への批判と要求でしかなかったのだが、時のジュアンダ内閣がそれを分離独立運
動と定義付けて軍隊に鎮圧を命じたことから大鎮圧作戦が始まり、当の革命政府も本気で
戦争せざるを得なくなった。

この中央と地方の争いの中にインドネシア共産党PKIが影を投げかけていた。PKIのオルグ
は西スマトラでも顕著な成果を見せていたため、PRRIが反共姿勢を顕著に示すようになる。
しかしスカルノの国政をサポートする立場にある中央政府がPKIを国際外交の手駒に使う
スカルノに反対するわけにいかないのは明白だ。結果的にPRRI反乱はさまざまな要素が混
じり合った武力闘争へと変質して行った。

東西冷戦のはざまで双方を手玉に取ろうとするスカルノに顔をしかめていた米国は、西ス
マトラが反共の旗印を掲げて中央政府に反乱している点に興味を抱いた。CIAが接近して
PRRIに軍事支援を与え始めたことが、1958年5月にCIAエージェントであるアレン・
ポープの操縦するB-26爆撃機の撃墜によって判明する。そのときポープはアンボンのイン
ドネシア共和国軍を爆撃するために出動しており、共和国軍によって撃墜されたのである。
ポープは中央政府に逮捕された。

インドネシア中央政府と米国政府間で交渉が行われ、最終的にポープは釈放された。その
交渉の中で、ジャカルタバイパス建設工事が決まったのである。スカルノは1962年に
第4回アジア競技大会をジャカルタで開催する構想を抱き、そのためにいくつかの建設工
事を計画していた。

会場になる大型スポーツコンプレックスをスナヤンに設け、外国からの賓客の宿舎として
ホテルインドネシアを建て、タンジュンプリオッ港から建築資材を現場に運ぶための道路
を建設することがその内容だった。そしてスナヤンのブンカルノスポーツコンプレックス
はソ連の援助、ホテルインドネシアは日本からの戦争賠償金にローンを加えたもの、タン
ジュンプリオッ港から資材を運ぶバイパスは米国の援助で完成し、1962年7月にアジ
ア大会はつつがなく開催された。


バイパスの建設は1960年の初頭から開始され、アジア大会のための諸施設建設のため
の資材がタンジュンプリオッ港に届くとそれらは効率よく建設現場に送られていった。
タンジュンプリオッからチャワンまで来た車両は西に向きを変えてハルヨノ通りに入り、
スディルマン通りに向かう。タムリン〜スディルマン通りはオランダ時代に作られたニュ
ータウンであるクバヨランバルとヴェルテフレーデンを結ぶ一級道路だった。

ハルヨノ通りはスポモ通りとの交差点でガトッスブロト通りに名を替える。空軍の像が建
っているあの交差点だ。ガトッスブロト通りが北西に向きを変えながらスディルマン通り
を通過する場所は丘になっているために橋をかける必要があった。そのためにその立体交
差点は最初スマンギ橋Jembatan Semanggiと呼ばれていたのである。

しかしスディルマン通りと接続する道を作らなければスナヤンへもホテルインドネシアへ
も行けない。こうして当時の公共事業省がデザインしたクローバー型立体交差ができあが
った。クローバーという草はインドネシア語でスマンギだ。

その地区にスマンギという地名はなかったので、スマンギ立体交差という名称はその形態
から命名されたとわたしは聞いていたのだが、その周辺にクローバーの草がたくさん生え
ていたことに由来しているという説も今は有力になっている。[ 続く ]