「タンジュンプリオッ(10)」(2025年09月30日)

タンジュンプリオッ港の建設が開始されたのは1877年のことで、ファン ランスベル
へ第58代総督の時代だ。新港の設計図はオランダの建築家J.A.A.ヴァルドロップが描き、
建設工事は公共事業省に所属する水利エンジニアのJ.A.ドゥ ヘルダーの監督下に187
7年5月12日に開始された。

総工費2,650万フルデンを費やした工事が1886年に完成した。パサルイカン近辺
にあった旧バタヴィア港の施設はすべてタンジュンプリオッに移され、旧バタヴィア港は
パサルイカン港に呼び名が替わった。

オープニング式典後もタンジュンプリオッ港にやってくる船はまだまだ帆船がメインを占
め、蒸気船の入港はそれほど多くなかった。その状況が入れ替わったのは20世紀に入っ
てからだ。いざ大型蒸気船が続々とやって来るようになると、作られた港の規模が不足し
始めた。そのために港の拡張が必要という声が高まり、1914年に第二期工事が開始さ
れた。

第二期工事の施設建設を請け負ったのはフォルカーで、1917年に工事が完了した。こ
の工事では全長百メートル幅15メートル水深9.5メートルの突堤が海に張り出して作
られ、大型船の接岸が楽に行えるようになった。その突堤の上を鉄道線路が複線で走り、
電力供給ポイントもたくさん設けられた。1917年にはオランダ東インド石炭貿易会社
NISHMの石炭貯蔵所とシェルやバタアフ石油会社BPMの燃料貯蔵所が設けられた。

第三期工事は1921年に開始されたものの世界恐慌のために頓挫し、1929年に再開
された。この工事では西側に550メートルの埠頭が設けられ、1932年に完成した。


1890年に撮影された、タンジュンプリオッ港の埠頭に接岸している船の写真がある。
この船は第20代VOC総督の名前を取ったKPMの所有船舶、641GTのSSヘンドリッ
ク・スワルデクローン号だ。長い埠頭のすぐ脇に鉄道線路が敷かれ、その奥に待合室と思
われる長い大きな建物が埠頭に沿って建っている。建物の表には乗客らしいひとびとが三
々五々立っている姿がある。

スワルデクローン号は1906年に日本の海運会社に売却され、Kimigayo Maruに船名が
替わった。その日本の海運会社はバタヴィア〜上海往復航路に君が代丸を使用した。

KPMは1891年以来、オランダ東インドの30港を結んで海上交通の網の目を紡いだ。
タンジュンプリオッ港からはそのうちの6港に向かう船が出た。KPMのおかげで、島だ
らけのオランダ東インドのどこへ行くにも、たとえ乗り換えを余儀なくされたとはいえ、
困ることが起こらなくなった。1927年にKPMの船隊は136隻を数えた。


1942年3月に日本軍がジャワ島を占領すると、タンジュンプリオッ港は海軍の管理下
に置かれてDjawa Unko Kaisyaが管理運営を行った。日本軍が港を掌握した時、オランダ
人が破壊した埠頭・倉庫・ドック・道路などの機器や施設がいくつもあったし、また水路
に機雷が敷設されていたため、掃海作業を余儀なくされた。日本軍はインドネシア人ロー
ムシャを使ってそれらの修復作業を行った。

1945年8月17日のインドネシア共和国独立宣言に応じて、タンジュンプリオッ港の
管理運営がタンジュンプリオッ海上国民保安団の手に移された。その組織の運営に携わっ
たのは植民地時代〜日本占領期を通してプリオッ港で働いていたひとびとだった。ところ
が9月中旬からAFNEI軍が終戦処理のために到着してジャカルタを統治下に置き、NICA(
オランダ東インド文民政府)が行政を掌握したためにタンジュンプリオッ港の管理運営も
NICAの手に移り、その状態はハーグ円卓会議で主権移譲の合意がなされるまで続いた。1
949年12月27日が合意の発効した日付だ。[ 続く ]