「タンジュンプリオッ(11)」(2025年10月01日)

円卓会議合意書の中に、タンジュンプリオッ港は75年間の借地権を持つKPMに返す一
項があった。その権利は1952年に満了するので、インドネシア共和国はその満了日を
待ってプリオッ港を国有化し、運輸省海運局の管下に置いた。現場の管理運営は港湾事業
庁が行った。

KPM所有の全船舶は国有会社タンジュンプリオッドックに委ねられ、倉庫・埠頭その他
の施設は港湾事業庁が運営した。港湾事業庁は税関・浚渫局・移民局・軍管区司令部・港
湾管理オーソリティなどの関連政府部門と共同で施設の運営に当たった。

政府はタンジュンプリオッ港を国内トップ港に位置付けてその機能を最大限に発揮させる
ために施設と設備の向上と保全に努めた。1955年にプリオッ港西端の埠頭が渡海航路
専用埠頭として改装された。その埠頭は現在もPelabuhan Nusantaraと呼ばれている。


タンジュンプリオッ港建設に際して、港とバタヴィア旧市街を鉄道で結ぶ計画は最初から
立てられていた。港建設の青写真の中に鉄道建設も盛り込まれていたのだ。埠頭の船着き
場まで線路が敷かれ、鉄道駅は埠頭に入る手前の場所に1885年に建設が開始されてタ
ンジュンプリオッ港のオープニングと同時に使用が始まった。

タンジュンプリオッ港のオープニング式典が1878年3月18日に催されたと書かれて
いる記事によれば、オープニングを宣するために時の総督ファン ランスベルへが新鉄道
路線を使ってバタヴィア旧市街からタンジュンプリオッに向かったそうだ。鉄道の方もそ
れが公式の初運転だった。

そのとき、バタヴィア旧市街の乗客用鉄道駅とタンジュンプリオッ駅はまだつながってお
らず、総督はHeemradenplein(カンプンバンダンの北にある鉄道車両デポ、そこにある駅
はいまジャカルタグダン駅という名称になっている)から列車に乗った。総督を乗せてそ
んな公式初運転を行うことをオランダ人がしたのだろうか?

そのころ、バタヴィア近郊鉄道はNederlandsch-Indische Spoorweg Maatschappij (NIS)
とBataviasche Oosterspoorweg Maatschappij (BOS)というふたつの民間鉄道会社が運行
しており、どちらもがバタヴィア旧市街南部に大型駅を設けていた。

オランダ東インド領内の鉄道政策は民営が基本に置かれていたが、鉄道事業の公共性が民
営だけで完遂されるには無理があると考える政庁は国有鉄道会社Staatsspoorwegen(SS)
を1875年4月に設立した。


NISはパサルイカンにある当時のバタヴィア港とバイテンゾルフを結ぶ路線の建設を開始
し、コニングスプレインまでの工事が完了してから列車の運行を開始した。そのオープニ
ングは1871年9月15日だった。バタヴィア駅はそのオープニングに合わせて工事が
終了している。鉄道敷設工事は更にバイテンゾルフに向けて進められ、全線が開通して1
873年1月31日に初運行が行われた。

BOSはバタヴィア駅からメステルコルネリス〜ブカシを経由してカラワンに向かう路線の
事業を1887年に開始した。その年にバタヴィア〜ブカシ間の運行が開始され、カラワ
ンまでは1898年3月19日に開通した。

最初東インド政庁はNISにタンジュンプリオッ港への鉄道運行を指示したものの、同社は
興味を示さなかった。それでBOSに話を持ち掛けてみたが操業を開始したばかりのBOSは余
裕がないという姿勢を示したため、結局NISにその路線の建設と運営が強制されたようだ。

だったら港のオープニング式典の日に線路はどうしてバタヴィア北駅につなげられていな
かったのだろうか?オランダ東インドを統治する政治上の第一人者である総督が普通の乗
客駅でない車両デポから汽車に乗るということが社会的にどんなイメージをもたらすかを
考えて見ると良いかもしれない。

事業適性が劣るために投資は避けたいと思っているビジネスを行政が強制したのであれば、
NIS経営者は抗議せずにはいられまい。いまジャカルタグダン駅と呼ばれているその場所
はNISの貨物駅だったのではないだろうか。NISはタンジュンプリオッの埠頭とカンプンバ
ンダンの貨物駅を結んで線路を敷いただけで、バタヴィア北駅に繋げることなど考えてい
なかったのではあるまいか。それが政庁の強制に対するかれらの抗議だったということも
あり得るように推測できる。[ 続く ]