「チルボン鉄道路線網(1)」(2025年10月01日) 西ジャワ州北岸東部の港町で古くからの王都でもあるチルボンは15世紀ごろから書物に 名前が記されるようになった。以来、発展していくチルボン港にはインド・アラブ・中国 の船が来航し、持ってきた外国の品物とチルボンの特産品であるエビや籐を交易して船に 積み込んだ。 VOC時代に入ると商業用農産物の政策的生産が活発化して、後背地でのコーヒーや茶、 さらに砂糖生産が増加し、チルボンの輸出商品を多彩にした。プリアガンと呼ばれる西ジ ャワの内陸高原山岳地帯は、VOCがその商業政策を世界規模で展開するための大供給源 のひとつだった。その点で、チルボン港はVOCにとって大きい価値を持っていたと言え るだろう。東インド政庁はそれをさらに拡大発展させたのである。 港町チルボンにはじめて鉄道をもたらしたのは民間資本のSamarang?Cheribon Stoomtram Maatschappij(スマラン〜チルボン蒸気鉄道会社、略称SCS)だ。認可された99年間のス マラン〜チルボン間鉄道事業コンセッションを根拠にして1895年に設立されたこの会 社はスマランとチルボンのふたつの港を結んで245KMの鉄道路線を設け、その間にある プカロガンやトゥガルの町を両端の港町につなぎ、その間の人の移動と域内にある54ヵ 所の製糖工場の製品やその他の物産にとっての輸出の便を向上させるための鉄道輸送事業 を行った。 鉄道建設工事はスマラン側のターミナルであるプンドリカンから開始されてクンダルに1 897年5月2日に到達した。チルボンに向けての工事が継続される一方、チルボンから の工事も開始されて、プマランで両者が接続され、1899年2月1日にプマランに向か う列車の初運行が行われた。 SCSのこの路線は現在の鉄道路線と異なっていて、今の路線はクンダルを通らずもっと南 を走っているし、他にもルートが変わったところがある。それらの変更は1914年に SCSが政策的な意志を入れて行ったものだ。 1914年にNISがクミジェンのターミナル駅をスマランタワンに移したことで、SCSもス マラン側の終着駅だったプンドリカンからポンチョルにターミナル駅を移した。同時にチ ルボン駅のひとつ手前にチルボンプルジャカン駅を新たに設けてチルボン港との間に約4 KMの路線を新設した。港の駅名はチルボンプラブハンだ。 1980年代に入ってからチルボンプルジャカン〜チルボンプラブハン路線の列車運行が 閉鎖された。国内交通政策の基本が鉄道から道路に切り替えられ、利益を生まない鉄道路 線が軒並み廃止されていったのがその時期だ。その事実はチルボン港の活況が昔の夢に変 化していたことを証明するものと捉えることができるだろう。 SCSは最初、たいへん簡素なチルボン駅を1897年に建てた。1899年に全線の運行 か始められてからしばらく後の1914年に大型のチルボンプルジャカン駅が作られた。 この新駅は1912年にSSが建てたチルボン駅(現在は別名チルボンクジャクサン駅とも 呼ばれている)と1.5KM離れているだけだ。 現在のチルボン駅舎をデザインしたのは建築家APJモーイェンで、中央ジャカルタメンテ ン地区のチュッムティアモスクもかれのデザインだ。かれはモスクを建てる意図などなく、 メンテンのリアルエステートオフィスを建てたのだったが、そこをインドネシア人がモス クにしたのである。 チルボン駅舎は左右に楼を伴った形の建物になっている。昔は左側の楼にKaartjes右側の 楼にBagageと書かれていて、乗客と貨物発送者がどちらに入ればいいかを示していた。 本社をトゥガルに置いていたためだろうか、トゥガル県内でトゥガル〜バラプラン24キ ロの路線を運行していたジャワ鉄道会社Javasche Spoorweg Maatschappij(略称JSM)の負 債が膨れ上がったことから1895年9月16日にSCSがJSMを買収した。ジャワ鉄道会社 は1886年から事業を開始し、1895年にその短い生涯を閉じたのである。 そのできごとがSCSを誕生させ、スマラン〜チルボン路線を営業させる契機になったので はあるまいか。SCSはトゥガル〜バラプラン路線を運行させながら、スマラン〜チルボン 路線の工事を開始したことになる。[ 続く ]