「チルボン鉄道路線網(2)」(2025年10月02日)

JSMが建設したトゥガル〜バラプラン路線は今現在も生きて使われている。これはバタヴ
ィア〜スラバヤ間の時間短縮を目指す国有鉄道会社Staatssporwegen(略称SS)がチルボン
〜クロヤ路線を設けるためにチルボンプルジャカンからプルウォクルト〜クロヤに向けて
線路を敷いたとき、その路線内にあるプルプッとバラプランをつないでループを作ったお
かげだ。SSがチルボンプルジャカン〜プルプッ区間を開通させたのは1916年7月1日
だった。

プルウォクルト〜クロヤ方面から来た列車はプルプッでチルボン方面とスマラン方面に別
れることになる。プルプッはプルジャカンから75KMも離れており、スマラン方面行の列
車をプルプッから直接トゥガルへ行けるようにしたため、クロヤ〜スマラン間はチルボン
を経由する必要がなくなった。


バタヴィア〜スラバヤ間の鉄道路線がどうしてジャワ島南部に向かうのかという疑問に答
えるためにはインドネシアの鉄道史を解説しなければならないだろう。オランダ人がイン
ドネシアに鉄道網を設けた最大の理由は植民地東インドで産する輸出商品としての物産を
効率よく大量に輸出港に運ぶためであり、人間のための交通機関という機能は二義的なポ
ジションに置かれていたからだ。

そのために最初の鉄道路線はスマランとソロ・ジョクジャ間を結び、次いでスラバヤと東
ジャワの農園地帯である内陸部がつながれ、西ジャワの内陸部はバタヴィアあるいはチル
ボンとインド洋岸のチラチャップに連結された。ジャワ島の鉄道敷設は南北方向のオリエ
ンテーションを最初に持たされたということだ。そしてそれらの路線がジャワ島の南部地
域で結び合わされた結果がジャワ島南部を回るバタヴィア〜スラバヤ路線を作り出したの
である。

列車でバタヴィアやバイテンゾルフからバンドゥンを経由し、チラチャップエリアを通っ
てヨグヤカルタに達したあと、ソロからスラバヤまで移動するのに途中泊が必要だった。
その時間を短縮するためにSSはもっと短いルートを建設した。既にバタヴィア〜ブカシ〜
カラワン〜チカンペッ〜プルワカルタ〜パダララン〜バンドゥン路線を1884年に設け
ていたSSはチカンペッからチルボンを経由して南下し、プルウォクルトを経てチラチャッ
プ〜ジョクジャ路線のクロヤにつなげる鉄道工事を1912年に開始した。

チカンペッ〜チルボンプルジャカンは1914年に開通し、チルボン〜プルプッは191
6年につながった。そしてチカンペッ〜クロヤ間の全線開通が1917年に実現したので
ある。


SCSはスマラン〜チルボン間の本線とまた別にプカロガンから南のウォノプリンゴへの支
線と、ワルドゥウルから東方のロサリ、そしてチルボンから西に向かってマジャレンカ県
のカディパテン、また途中のクラグナンからグヌンギウルへ分岐する支線を設けている。
ややこしいから、こう図解すると分かりやすいかもしれない。
本線(1897) Cirebon - (Cirebon Prujakan - )Mundu - Waruduwur - Kanci - Sindanglaut 
- Karangsuwung - Ciledug - Badilan (Pabedilan) - Losari - Tegal - Pemalang - 
Pekalopngan - (kendal - )Semarang
支線 カディパテン方面(1901) Cirebon - Kedawung - Tengahtani - Pesalaran - 
Plumbon - Jamblang - Klangenan - Kadipaten
支線 チルボン港(1914) Cirebon Prujakan - Cirebon Pelabuhan
支線 ロサリ方面(1915) Mundu - Waruduwur - Badilan (Pabedilan)- Losari
支線 グヌンギウル方面(1922) Klangenan - Gunung Giwur
[ 続く ]