「タンジュンプリオッ(12)」(2025年10月02日)

NISは最後までバタヴィア北駅に線路を繋げなかったのかもしれない。1900年ごろ、
タンジュンプリオッ〜バタヴィア間とタンジュンプリオッ〜クマヨラン間を一日40便が
往復していたという情報がある。SSがその運行を実施していたと書かれているので、どう
やらBOSを買収したSSがタンジュンプリオッ〜バタヴィア南〜クマヨラン路線で列車を走
らせていたと解釈するのが自然だろう。とすればNISが引いたタンジュンプリオッ〜ヘー
ムラデンプレイン間の線路もSSが買い取ったのではあるまいか。そして最終的にSSはバタ
ヴィアで操業していたNISの路線をすべて買収することになるのである。


ふたつあったバタヴィア駅の関係がややこしいから整理すると、多分こうなっているので
はないかと思われる。

NISバタヴィア駅は1871年に、バタヴィア市庁舎の南側に建てられた。1887年に
なってBOSがバタヴィア駅をNISバタヴィア駅から2百メートルほど南に建てた。南北にふ
たつ並んだバタヴィア駅はNISバタヴィアとBOSバタヴィアという呼び名で区別された。し
かしバタヴィア北駅とバタヴィア南駅という名称で区別するひともいた。

そのBOS社をSSが1898年8月4日に買収したのである。その買収はバタヴィア〜バン
ドゥン鉄道政策に関連して行われたものだった。それ以来、バタヴィア南駅は実質的にSS
バタヴィアになったわけだが、世間は相変わらずBOSバタヴィア駅と呼びならわしていた。
SSはその後さらにNISのバタヴィア〜バイテンゾルフ線を1913年に買収した。この買
収はバタヴィア〜ヨグヤカルタ間の鉄道運行の一本化が目的だったようだ。こうして北バ
タヴィア駅もSSの運営する駅になった。

そうなると、コタ地区にバタヴィア駅がふたつ存在する意味がなくなる。ふたつをひとつ
にするための工事は1926年に開始された。まず南駅が改装工事のために閉鎖され、閉
鎖中はすべての列車がバタヴィア北駅に乗り入れたから、バタヴィア駅は臨時的に一本化
されたことになる。そして南駅が現在のジャカルタコタ駅の姿になって1929年8月1
9日にお目見えしたのである。場所も現在のジャカルタコタ駅の位置になっており、使用
開始はその年の10月8日だった。ジャカルタコタ駅がべオス駅とも呼ばれるのは南駅の
別称であるBベー+OSオスの名残ではあるまいか。 


1914年4月にオランダ東インドではじめての鉄道事故が発生した。後々までもそれが
最初で最大の事故だったと東インドのオランダ人たちは噂した。1914年4月2日付け
のBataviaasch Nieuwsbladはその事故の詳細なレポートを下のように報じた。

始発駅メステルコルネリスを午前6時12分に発車したタンジュンプリオッ行き蒸気列車
は6時34分にクマヨランに到着。そしてタンジュンプリオッに向けて再び発車してから
7時ごろにはアンチョルのカリマティの脇を通過しつつあった。カリマティとはアンチョ
ル運河のこと。

そのとき、カリマティの橋から20メートルほど手前で草を食べていた水牛が突然線路を
渡り始めたのである。機関士は急制動をかけたがたいした効果はなく、時速30キロくら
いのスピードで橋に激突した。この橋は恒久的に作られた橋でなかったために、橋が折れ
てカリマティの水の中に落ちた。

列車の方は、先頭車両が川に落ち、2両目は橋の直前で止まったが、3両目は2両目に激
突して脱線し車体が大破した。4両目も3両目に激突して脱線し大破した。その後ろにあ
った車両は脱線しなかった。[ 続く ]