「タンジュンプリオッ(14)」(2025年10月04日)

最初のステージで埠頭の入り口に作られたタンジュンプリオッ駅はたいへん簡素なものだ
ったようだ。NISが乗客の運送を軽んじ、貨物をビジネスの主眼に置いていたのであれば、
どんな形の駅になるかは想像できるだろう。

何年のことか詳細は不明だが、SSが乗客列車運行を開始したころ、NISが建てた駅舎が相
変わらず使われていたとは考えにくい。古いタンジュンプリオッ駅舎と銘打った写真をネ
ット内で探すと、貨物駅とは思えないような写真が出て来る。もちろん1925年にオー
プンした新駅舎とは別物だ。


スエズ運河を抜けてヨーロッパからやってくる大型の蒸気船が増加すれば、豪華なターミ
ナル駅を期待する声もきっと高まったことだろう。港の埠頭から1キロほど南の総面積4.
7Haの土地が新駅のために用意され、その土地の3,768平米を使って1914年か
ら新駅舎の建設が開始された。1918年に建てられたと述べている記事もあるが、それ
が着工年と竣工年のどちらを意図しているのかは不明だ。

建設者は東インド政庁公共事業省であり、設計図を描いたのはSSの建築技師CWコッホだ
った。新駅舎は湿地帯の中に忽然と出現した殿堂の趣を見せていた。130人のヨーロッ
パ人を含む1千7百人がこの駅舎建設に投入された。

そのモダンな大型の鉄道ターミナル駅は1925年4月6日にオープニング式典が行われ
た。その日付はSSの創設50周年記念日に当たり、同時にメステルコルネリスとタンジュ
ンプリオッをつなぐ電車の開通に合わせて行われたものだった。それがインドネシアの電
車運行の事始めになる。SS社開発部長ファン スハイクはタンジュンプリオッ駅舎からバ
ンドゥンのSS本社にいるCEO宛てに祝電を送った。
「車内は超満員であり、ひとびとの絶大な関心は桁外れだ。列車が出発すると、ひとびと
はトランペットを吹き鳴らした。運行は定刻通り。」

ヨーロッパ人もインランダーも、東洋人在留者も、この感激の瞬間を迎えて大いに酔い痴
れた。パサルスネンとクマヨランを経由してタンジュンプリオッとメステルコルネリスを
結ぶ鉄道の電化は世界の諸国に先駆けたものであるという大きな誇りをかれらに感じさせ
たのがその原因だった。


完成なったタンジュンプリオッ新駅舎は南西から入って来る列車をペロンに収め、表玄関
は北にある港に向けて北東を正面にしている。建物のデザインは窓・扉・建物の角部分な
どが四面体で作られており、アールデコスタイルを基盤にしたキュービズム調のデザイン
が強調されていた。その時代の鉄道駅舎の常識から言えば、新しいタンジュンプリオッ鉄
道駅建物は未来を先取りする豪華で贅沢な駅舎であった。

なにしろ駅舎の中にホテル・バー・ボールルームなどの施設が備えられていたのだ。ホテ
ルの客室は建物南側の二階に並んでいた。汽車の最終便が出た後に駅に着いた客は駅舎内
のホテルに泊まった。あるいはまた、バタヴィア市内から郊外部、遠くはバンドゥンなど
から船に乗るためにやってきたひとびとが船の出発までそのホテルで過ごすこともあった
だろう。

ホテルの部屋は3x5メートルの小部屋になっていて、外のバルコニーに出ることができ
る。昔はそこから海が一望のもとだったと思われるが、今は港湾管理会社のビルに邪魔さ
れて風景を楽しむことなど思いも及ばない。[ 続く ]