「タンジュンプリオッ(15)」(2025年10月05日) 二階に煙突を備えた厨房があって、その階下にレストランがあり、バーもあった。厨房と レストランの間は料理や食器を上げ下げするリフトが設置されていた。バーの下には地下 室があって地下道につながり、地下道を通って港へ行けるようになっていたそうだ。その 地下室がボールルームだったという話も語られている。駅舎建物内にはまた、郵便局や銀 行もあったらしい。 駅舎内の一部にはステンドグラスが使われ、成形セラミックオーナメントが壁を飾り。メ インベランダには大型カラムが置かれ、その豪華さはバタヴィア駅をはるかにしのぎ、オ ランダ東インドナンバーワンの印象を誇示していた。 ペロンの大ホールには8列車が入れるようになっており、8対のレールがプラットフォー ムをはさんで並んでいた。ペロンの屋根の鉄骨と屋根板はスラバヤの~ガグルに所在する 鉄工会社のMachinefabriek Braat Soerabaia-Djokja-Tegalが製作したものだ。東インド で作られた屋根の中で最大級のものであり、オランダのアムステルダム駅舎に匹敵するも のと言われた。またペロンの端に建てられた鉄道信号センターはまるで空港の管制塔を思 わせるようなものになっていた。 バタヴィア駅よりも大きいペロンのありさまに、無駄な贅沢のしすぎだという批評もあっ たそうだ。なにしろこの駅の機能は本質的に陸の鉄道と海上の船の間で人間や貨物の移動 をスイッチするためのトランジット駅なのだから。 プリオック港に到着したヨーロッパからの入国客はそのまま鉄道駅に向かい、汽車に乗っ てヴェルテフレーデンのパサルバルやスネン、あるいはメステルコルネリスを目指した。 20世紀初期にヨーロッパで東インド植民地軍に雇用された青年は部隊の一員としてタン ジュンプリオッ港に上陸し、そのままプリオッ鉄道駅に入った。豪壮な駅舎の巨大なペロ ンにはたくさんのヨーロッパ人・プリブミ・華人がいて賑やかに混じり合っていた、とか れはバタヴィア最初の印象を書き遺している。 しかしこのタンジュンプリオッ鉄道路線はオランダ植民地時代の末期に、既にその末路の 予兆が出現していた。1940年にクマヨラン空港がオープンしたのである。オランダ人 は遠距離の旅をするに当たってそれまでの交通手段を客船から航空機にシフトし、船に乗 るために港へやってくる者が減少し始めた。 空運が発展するにつれて海上交通利用者が航空路に奪われるようになる。タンジュンプリ オッ港を通過する人間の賑わいが低下していくのを防ぐ手段はなかった。豪華で贅沢に作 られたタンジュンプリオッ鉄道駅もおのずと寂れるようになっていった。 そんな末期の時代にまだ船を利用する乗客もいたことはいた。ところがタンジュンプリオ ッ鉄道駅は港の埠頭との間に1キロほどの距離があったのである。その間にフィーダーバ スが用意されていたにもかかわらず、船客の多くは埠頭からバタヴィア市内へそのまま乗 り物で行く方を選択しがちだった。 日本軍政期にタンジュンプリオッ港、駅、鉄道は日本軍の軍事用途のための使用が最優先 された。ジャワ島の各地で徴用されたロームシャたちが離れた土地に送られる際にプリオ ッ線の鉄道が使われ、タンジュンプリオッ駅から船に乗り込んでいた。またかれらがジャ ワ島に船で戻された時も船はタンジュンプリオッ港でロームシャを下ろし、かれらを故郷 に返す鉄道便の準備が整うまで、タンジュンプリオッ駅舎が臨時の収容所として使われて いた。[ 続く ]