「インドネシア鉄道史(5)」(2025年10月15日) グーグルマップを見ると、スマラングダン駅の北側にSporland通りやDepo Indah通りを見 出すことができる。デポインダ通りは車両デポだったのでそう命名されたそうだが、18 66年の地図を見るとそこには運河駅に向かう列車を通すための線路があるため、運河駅 が廃駅になってからでなければそこをデポに使うことができなかったように思われる。 スポルラン通りというのはオランダ語のSpoorlandもしくはSpoorlaanではないかと推測さ れる。しかしNISスマラン駅が現役だった時代にそこは線路用地だったのであり、NISスマ ラン駅がスマランタワン駅にその地位を譲ったあとでなければ、そんな名称を付けて呼ば れる必然性がなかったのではないだろうか。これはオランダ語の地名が現代インドネシア まで残された事例のひとつかもしれない。 2014年のコンパス紙に掲載された記事は、消え去ったインドネシア鉄道史最初の駅舎 の跡を探る内容になっていた。デポインダ通りにある国鉄職員寮の住人のひとりは、スマ ラングダン駅で働いた経歴を持っていた。その老人は1950年代からその寮に住むよう になった。 職員寮は元々、NISスマラン駅の南ウイングだった建物だそうだ。北ウイングおよび両ウ イングをつなぐ西建物は跡形もなく消え失せてしまった。U字型の駅舎は東に向けて口を 開いていた。老人は寮の中を案内して壁の一カ所を指差し、ここにSAMARANGと書かれてい たと語った。スマラン駅が建てられたころの写真を見て知っている記者は、写真の中の高 所に記された文字があまりにも低い位置にあるのを見て首をかしげた。 しかし寮内を見て回った記者は、ドアの上の通気口や駅構内乗降場の壁と天井をつなぐ鉄 製装飾コンソールがすべて低い位置にあるのを確認して、地盤沈下のすさまじさに改めて 気付いた。この地区は地下水の汲み上げによって地盤沈下が起こり、地表に海水が浸入し て多くの場所が湿地帯になり、昔の様相が一変してしまったのである。スマラン北海岸部 の地盤沈下は3メートルに達していると見られている。 老人は、2〜3キロしか離れていないタンジュンマスのコンテナ港オープニングが198 5年に行われてからクミジェンの鉄道基地は頻繁に洪水が起きるようになり、地面が低下 するために毎年土を盛る必要があったと語っている。 オランダ時代にスマランには三つの鉄道会社がターミナル駅を置いていた。NISは南に向 かうジョクジャ方面路線のスマラン駅(後にスマランタワン駅に移転)、サマラン〜ヨア ナ蒸気鉄道会社はジュルナタン駅、チルボンとスマランを結ぶ路線を運行したサマラン〜 チェリボン蒸気鉄道会社Samarang-Cheribon Stroomtram Maatschappij (略称SCS)はポン チョル駅。それらの三駅をつなぐ線路は存在しなかった。 日本軍政期にそれらの三駅が線路でつなげられた。日本軍政が行った功績はもうひとつあ る。オランダ時代に各鉄道会社が思い思いに軌道幅を設定していたためにインドネシアの 鉄道は1435ミリと1067ミリが混在していた。オランダ時代には各鉄道会社が自己 完結的に軌道ゲージを決めていたのだ。 日本軍政ではジャワ軍政監部内の陸輸総局がジャワ島内の鉄道運営を総括したためにゲー ジの統一が行われて1067ミリという狭軌が標準にされた。今、オランダ時代に設けら れた路線はすべて1067ミリのままになっている。しかしインドネシア国鉄はそれを国 内標準にしているわけでもなく、新規に敷設された路線に広軌を使っているものもあるの で、そのポイントを誤解してはならないだろう。 スラウェシ島で開始されたトランススラウェシ鉄道路線では1435ミリのゲージが使わ れている。要は状況に合わせてフレキシブルに選択しているということであり、標準や基 準という概念で硬直的にゲージを決めているのではないようだ。[ 続く ]