「インドネシア鉄道史(6)」(2025年10月16日)

一方の、インドネシア鉄道史の第一ページを飾ったタングン駅は今どうなっているだろう
か?この駅もクミジェンに建てられた最初のスマラン駅と同じように、現役から退いてい
る。その間に作られたアラストゥア駅とブルンブン駅が今も現役として使われているのに
比べて、その運命は皮肉と言うほかないだろう。インドネシア鉄道史が物語られるとき必
ず登場する者と名前すら出てこない者の運命がこうもはっきり別れようとは、予想だにさ
れなかったのではあるまいか。


タングンハルジョ村の村道が横切っている踏切の向こうに、白と青で塗られた木造の建物
が見える。頑丈に作られたその建物がタングン駅舎だ。駅舎の裏に建てられている高床式
の駅長官舎と見比べるだけで、駅舎の頑丈な印象がすぐに伝わって来る。

今この駅は乗客や貨物の乗降駅として使われていないものの、そこは列車運行監視所とし
てまだ使われており、6人の駅員と駅長が日々そこで業務を行っている。鉄道史の幕開け
を飾ったこの駅はそんな形で余命を保っているのだ。

スマランからそこへ行くには、列車に乗っても通り過ぎるだけで降りることができないか
ら、車でトゥゴワヌ経由40キロを走って行くしか方法がない。ところがその車で駅舎の
表まで行くことすらできないのである。およそ20x8メートルある駅舎の表側を借地し
た住民の家屋がびっしり寄り集まっているため、車はその外側に止めて歩いて駅舎に入る
ことになる。線路側は相変わらず列車が通行するのだから、他の用途に転用されることは
起こらない。

地代収入年間5百万ルピアがこの駅の総収入ですよと笑いながら駅長は語った。それも現
金でなく、タバコ葉の収穫時に現物で納められる。村の中には昔ながらのチーク林、タバ
コ畑、サトウキビ畑などが青々と広がっている。

もし今でも列車がこの駅に停まるなら、村民の40人は毎日スマランへ行き、20人はソ
ロへ往復するだろうと住民のひとりが語った。鉄道の便がないためスマランへ行く住民は
鉄道乗車券の2〜3倍を出費し、何度も乗合バスを乗り換えながら2時間ほどかけてスマ
ランへ行っている。列車があったころスマランまではほんの30分で着き、支払う料金も
半分以下で済んでいた。おまけにここは最初ソロからの移住者が作った村だから、ソロへ
行く者が毎日必ずいる、というのがかれの説明だった。


1872年に開始されたスマラン〜ソロ〜ジョクジャ線167KMの鉄道運行は最初、経営
が苦しかったそうで、そのために政庁は経営資金の支援を条件にしてその路線の途中にあ
るクドゥンジャティ駅から東インド植民地軍の基地であるアンバラワまでの111キロ区
間に線路を敷かせた。政庁にとっては軍事上のメリットが確保されることになり、NISに
とっても経営支援が得られたために悪くないプロジェクトだったのではあるまいか。

植民地時代にフォルステンランデンと呼ばれたスラカルタとヨグヤカルタのジャワ王国と
スマランを結ぶルートをNISが東寄りにループを描くようなラインにしたのは、その通過
ルートがチーク林の宝庫だったことが理由だとスマランの大学教官は語っている。最短距
離はスマランからまっすぐジョクジャに南下するルートであり、そこには街道も作られて
いるとはいえ、山岳地帯の中央を突っ切る難工事は避けられなかっただろう。スマラン市
街から南に進むとほどなく地勢は上り坂になっていく。

その当時、スマランの東南部、スラカルタ周辺、ヨグヤカルタ周辺は土地が豊かで農作物
の繁茂する地域だったから、チーク林や農園事業で産する輸出向け商品作物が大量に収穫
できた。オランダ東インド最初の鉄道路線がチーク材・砂糖・コーヒーなどの物資輸送を
最大の目的にしていたことは動かしようのない事実だと思われる。[ 続く ]