「標準イ_ア語はKBBIで(4)」(2025年10月16日)

ライター: 作家、クルニア JR
ソース: 2009年1月23日付けコンパス紙 "Kamus Baru" 

Kamus Besar Bahasa Indonesia Pusat Bahasa Edisi Keempat第一刷が書店の店頭に豪快
な様子で積み上げられている。艶のある上質の紙に印刷されてこの辞典は高額なものにな
った。もっと廉い紙と薄い表紙の廉価版を出すことはできないだろうか?購入しやすく、
しかも持ち運びやすい。生徒・学生・ジャーナリスト・記者のインタビューを受ける高官
たち、あるいは他のだれでもがこの書物を容易に持ち運びできるように。

この辞典には90,049の採録語と2,036のことわざが集められている。先の第三版のエント
リは78,000で2,034のことわざが掲載されていた。ことわざがふたつしか増えなかったの
は、それが発展性を持たない言語形式であるためだ、と新版序文に書かれている。

ことわざとは過去の遺物なのだろうか?2千を超えるそれらのことわざは過去に発展があ
ったことを自ら物語るものではないのだろうか?

ことわざが人間の知恵を示すものであるなら、そのperibahasaという語の意味をこの辞典
はどのように説明しているのだろうか。
ungkapan atau kalimat ringkas padat, berisi perbandingan, perumpamaan, nasihat, 
prinsip hidup atau aturan tingkah laku

言葉を使う優れた才能はわれわれの祖先の世代で停止してしまったのだろうか?簡潔に凝
縮するという行動は現代人の規範になっている効率という原理に密着しているものだ。現
代人が言語使用の場にその原理を応用しないことがありうるだろうか?


それとは別のことがらとして、わたしがotomatisasiとotomasiのふたつの語彙をKBBI
第四版の中で調べたとき、問題が見つかった。見出し語otomatisasiは991ページに掲載さ
れていた。その前に少し説明しておこう。

otentik, otoaktivitas, otobiografi, otodidak, otografi, otokrasi, otokrat, 
otokritik, otomasi, otopsiなどには相互参照を示す矢印が記されて、それらを使う代わ
りに標準化された対応語を使うように勧められている。矢印の先に書かれているのは次の
ような綴りの語彙だ。
autentik, autoaktivitas, autobiografi, autodidak, autografi, autokrasi, autokrat, 
autokritik, automasi, autopsi

ところが上の語彙以外のエントリはoto-がそのまま使われているのである。
otobus, otomat, otomatis, otomatisasi, otomobil, otomotif, otonom, otonomi, 
otopet, otoritatif, otorisasi, otorisator, otoritas, otoriter

otomasi --> automasiという記載はautomasiという形が標準であることを示している。
101ページにあるautomasiの語義はmengotomatiskan(kata kerja)と書かれている。そして
そのすぐ下の見出し語にautomatis --> otomatisというものが記されている。

ふたつの疑問が生じる。ひとつ、エコルス=シャディリの英語インドネシア語辞典によれ
ばautomateはmengotomatiskanを意味する他動詞である。多分これが借用語automasiの語
源だろう。ところが綴りの面を見るなら、automasiはautomationとの高い親近性を感じさ
せる。そしてautomationは名詞なのであり、つまりはotomatisasiなのだ。

この辞典編纂者はどのようなロジックに従ってautomasiを動詞の標準語彙にしたのだろう
か?将来automasiとotomatisasiを同義語にする合意が成立したとき、その両方が標準語
彙になっては過剰な重複行為ということになる。

もうひとつは、イ_ア語標準化の枠組みの中にoto-とauto-というふたつの区分を設ける
という奇妙なことを行った根拠は何なのかという疑問だ。英語では/au/と/to/が使われて
たとえばau.to.di.dactやau.then.ticが形成されている。インドネシア語に摂取された借
用語のメインを占めるオランダ語でもautoやauthentiekのように同じ原理が使われている。
oto-という形式は英語やオランダ語に使われていない。

インドネシア語の社会はoto-の使用に慣れている。これまで普通に使ってきたものに揃え
ようとしないのは何のためなのか?もしもauto-の形に合わせたいという意向があるのな
ら、どうして一部の語彙をoto-のままにしておこうとするのだろうか?