「インドネシア鉄道史(13)」(2025年10月23日)

ジャワの華人プラナカン文筆家のひとりであるリー・キムホッの人物像を描いたティオ・
イースイの作品「Lie Kimhok 1853-1912」が1958年に出版された。その中にジャカル
タ‐ボゴール‐チアンジュル地方に焦点を当てて19世紀の交通状況がどんなものであっ
たかを描いている章がある。その章には鉄道についてこんな話が書かれていた。

ボゴールは1873年、チアンジュルは1884年まで汽車を知らなかった。1864年
にボゴールで、ボゴールはバンドゥンと鉄道で繋がるという噂が広がった。その年に東イ
ンド政庁がジャカルタ〜ボゴール間の鉄道コンセッションを用意したのた。

ジャカルタ〜ボゴール間の鉄道線路敷設工事は1869年10月25日に開始され、18
72年末に完了した。1873年1月1日から貨物列車運行が始まり、乗客列車運行のス
タートは1月27日だった。

ボゴールからチアンジュルを経てバンドゥンに達する鉄道、プリアンガー線は10年後の
1884年に開業した。バタヴィア東部鉄道BOSからSSへのジャカルタ〜カラワン線の移
管が1898年になされ、プルワカルタ〜パダララン区間は1906年に開通した。ジャ
カルタからスラバヤへ行く便は1894年に開通している。

その前に知っておかねばならないことがある。バタヴィア駅はふたつあって、ひとつは南
に、もうひとつは北に向かう列車の駅だ。間違えると、山に行きたい者は海に着き、海に
行きたい者は山に連れて行かれる。

そのひとつはNISのバタヴィア駅でありバタヴィア市庁舎に近いPasar Pisang(Pinangsia)
にあったが、今は廃棄されてもうなくなっている。もうひとつはSSのバタヴィア駅だ。
NISのバタヴィア駅から数百メートル南のJembatan Batuの近くにあり、Beosとも呼ばれて
いる。NISがプリアンガーに向かい、SSはタンジュンプリオッにだけ行った。


ジャカルタでは、スラバヤへ汽車で行こうとすればNISに乗るしか方法がなかった。とこ
ろがNISはボゴールまで乗客を運んでくれるだけで、そこから先へは行かない。プリアン
ガー方面へはボゴールからSSに乗り換えるのだ。まったく唐突にSSはボゴールに出現する。
SSは乗客をマオスまで運んでくれる。4年後にやっとジョクジャまでつながった。急行列
車で走るのだが、ジョクジャ到着は夜になり、ホテルに一泊しなければならない。

ところが、SSはジョクジャから先へ行かないのだ。翌日ソロへ行くために乗った列車はSS
でなくてNISだった。ところがスラバヤへ行くためにはソロからまたSSに乗り換えるので
ある。これは笑い話ではない。

たとえどうであろうとも、鉄道はその当時、モダン・最速・最廉価・最善で最安全な交通
機関だった。それを光明に例えたひとがいる。闇の中に置かれていたたくさんの場所に光
を当て、繁栄をもたらしたのだ。ボゴールもそのひとつ。鉄道が通るようになってから、
ほどなく町は大きくなり、殷賑をきわめるようになった。


ティオ・イースイの言うプリアンガー線はボゴールからグデパンラゴ山系の南を回ってス
カブミ経由チアンジュルに向かい、パダラランを通ってバンドゥンに達するルートであり、
プリアガン地方で産する茶・コーヒー・キニーネなどをバタヴィア港に運ぶのがその最大
の使命だった。

SSはスラバヤとソロを結ぶ路線を先に設けていたから、バイテンゾルフ〜ヨグヤカルタ線
の開通に伴ってバタヴィアからジャワ島南部を回ってスマランやスラバヤに達するルート
ができあがった。バタヴィア〜スラバヤ間鉄道ルートの事始めはジャワ島北岸を通らない
行程になっていたのである。SSのソロ〜マディウン線のソロ側の駅はソロジュブルス駅で
あり、NISのソロバラパン駅の東隣にあって2キロほど離れている。ティオ・イースイが
上で語っているのがその話だ。[ 続く ]