「インドネシア鉄道史(19)」(2025年10月29日)

SSが建設したバンドゥンからタシッマラヤを経由してマオスに向かう本線はガルッの町を
通過しない。当初計画ではグントゥル山とチクライ山のはざまにできたガルッの町を通過
してタシッマラヤへ向かい、そこからチラチャップ方面に進むことになっていた。そして
その路線の工事が完成してチチャレンカ〜チバトゥ〜ガルッ間の列車運行が1889年8
月14日に開始されたのである。

ところがガルッ〜タシッマラヤの線路敷設はチクライ山〜ガルングン山の南麓を通さない
ように変更され、チバトゥ〜チアウィ〜タシッマラヤのルートを本線にすることが決まっ
た結果、チバトゥ〜ガルッ19KM区間は支線として運営されることになった。


パパンダヤン・チクライ・グントゥル・カンチル・ハルマンの山々に囲まれ、チャンディ
チャンクアンがあり、バグンディッ湖があり、滝があり、温泉の湯を浴びることのできる
場所もあるガルッをオランダ人はジャワのスイスと綽名した。

米国の映画スター、チャーリー・チャップリンがジャワ島観光に訪れた時、かれは鉄道を
使ってジャワのスイスにやってきたのだ。最初の1927年のときはオスカー女優のメア
リー・ピックフォードと一緒に観光旅行に来た。そのときの印象が良かったのだろう、1
935年に二度目の旅行に来たときは妻のポーレット・ゴダードを伴っていた。

1935〜40年ごろ、チバトゥ駅に列車が到着する時間になると駅の表には十数台のタ
クシーやリムジンが並んだ。ガルッの町にあるHotel Papandayan, Villa Pauline, Hotel 
Belvedere, Hotel Van Hengel, Hotel Bagendit, Hotel Grand Ngamplang, Villa Dolce
などが送り出した迎えの車だ。しかしチャップリンはチバトゥから自動車に乗り換えず、
ガルッ方面行き列車に乗り換えてガルッを訪れた。

ガルッ市民のひとりで歴史研究家でもあるフランツ・リミアールは1993年に没した父
親のリム・ビンサンから聞いた話をコンパス紙記者に物語った。二度目のガルッ訪問にや
ってきたチャップリンを出迎えるために大勢の地元民がガルッ駅前に集まって来たので、
駅から百メートルほどしか離れていない自宅にいた当時12歳のビンサンも何事が起こっ
たのかと思って人垣の輪に加わった。

そして名高い映画スターが夫婦でガルッに来たことを知って納得した。やってきたチャッ
プリンはトレードマークの山高帽にヒットラーひげ、ぴちぴちの上着にだぶだぶズボンと
いうスタイルをしておらず、スーツにネクタイを締め、農園の監督人が被るような帽子を
かぶって群衆の前に姿を現した。

集まった地元民に向かって手を振るチャップリンに、ガルッの市民たちは拍手喝采を送っ
た。宿泊予定のホテルグランドガンプランから来た迎えの者と一緒にチャップリン夫妻が
二百メートルほど歩いたとき、群衆も一緒になってその後ろをパレードした。
ひょっとしたら、その人懐っこさがチャップリンにはたまらなかったのかもしれない。か
れを見に集まって来た地元民にチャップリンが米ドルを配ったという話も別にある。


ホテルグランドガンプランは標高630メートルの位置に建てられていて、ジャワのスイ
スという綽名をガルッがもらうのに一役買ったのではあるまいか。ところがチャップリン
がそのホテルに泊まったということを物語っている歴史記録が見つからない、とフランツ
は記者に語っている。

だがガルッのチャップリンを写真家のティリ・ワイセンボーンがフィルムに収めていた。
東ジャワのクディリで生まれたドイツ系のティリが撮影した写真フィルムの中に、ガルッ
駅で群集の微笑みに出迎えられているチャップリンの姿が収められている。ティリはガル
ッの風景を愛し、かれの撮影した風景写真がさまざまな絵ハガキに使われていたから、そ
れがチャップリンのガルッ訪問のきっかけになった可能性も考えられるだろう。

ガルッにも地元の写真家がいた。ヨー・リアンキもチャップリンのガルッ訪問の写真を撮
っていたはずだが、世の中に出てきていないそうだ。[ 続く ]