「インドネシア鉄道史(28)」(2025年11月07日)

SSが初めて敷設したスラバヤ〜パスルアン路線が1878年に開通した後、パスルアンか
らさらに東に向けて線路が延長され、プロボリンゴに1884年に到達してその年5月3
日に初運行が行われた。それから10年あまりの歳月が経過したあと、SSはジャワ島東端
地域への鉄道網建設に着手した。

ジャワ島東端部の域内貿易港パナルカンにタパルクダ地方の農園物産や農林産あるいは鉱
物資源を鉄道で輸送することがこの路線網建設の主目的だった。北岸沿いにプロボリンゴ
からパナルカンまでの鉄路を敷いては、その目的を達成できないのが明らかだ。大郵便道
路とは異なるルートを取る必然性がそこにあった。

アルゴプロ火山南麓を回ってジュンブル経由パナルカンに至る工事が1893年6月23
日に開始され、線路はプロボリンゴから真南に37KM離れたクラカを経由して東南に位置
するジュンブルを目指した。

1895年7月1日にプロボリンゴ〜クラカが開通し、1897年6月1日にはクラカ〜
ジュンブル62KM区間を列車が走った。ジュンブルからカリサッ経由でパナルカンに到達
したのは1897年で、プロボリンゴ〜クラカ〜ジュンブル〜カリサッ〜パナルカンの全
線開通は1897年10月1日だった。この路線は次のようなルートになっていた。
Probolinggo - Leces - Malasan - Klakah - Bangsalsari - Rambipuji - Jember - Kotok 
- Kalisat - Ajung - Sukasari - Grujugan - Bondowoso - Bonosare - Prajekan - Widuri 
- Kalibagor - Situbondo - Tribungan - Panarukan - Panarukan Pelabuhan
また、シトゥボンド駅から3KMの距離にあるパンジ製糖工場への支線が1908年5月1
日にオープンしている。


何十年もパナルカンを居所にしているマドゥラ人のアブドゥラッマンは、かつてパナルカ
ンとスムヌップ県カリアガッの間を漁船で何度も往復した。84KMの波涛を越えてマドゥ
ラ海峡を縦断していたのである。時おりかれは漁果を売りにボンドウォソまで行くことが
あった。鉄道がそれを可能にした。

地域の中心港であるパナルカンには商人が商品を持って集まって来る。パナルカンでは街
中にまで飲食品や衣料品あるいは野菜果実などの商品があふれ、ボンドウォソの住民も鉄
道でパナルカンにやって来た。商品を売りに、あるいはショッピングのために。

鉄道はかれらにとってありがたい交通機関だった。ところがインドネシア国鉄は全長59
KMのカリサッ〜ボンドウォソ〜シトゥボンド〜パナルカン線の運行を2004年に廃止し
た。

ベチャ引きを稼業にしているボンドウォソ生まれのジャティムは物語る。鉄道が閉鎖され
る前、パナルカンは夜中までたいへん賑わっていた。パナルカンからマドゥラ島のカリア
ガッへ行く船の最終便が夜9時出発で、カリアガッ到着は翌朝5時だった。

19世紀初頭にダンデルス総督が建設を命じた大郵便道路の東端がパナルカン港だ。ダン
デルスのその選択がパナルカンの当時持っていたステータスに従う常識的なものだったこ
とはまちがいあるまい。

東に連なる小スンダ列島およびスラウェシ〜マルク〜パプアとジャワ島を結ぶ航路が手繰
り寄せられるジャワ島北岸部最東端の港町には海を渡る人と物資が立ち寄った。ダンデル
スが生まれる前からパナルカンはジャワ島北岸で有力な商業港になっていたのである。そ
して大郵便道路が通じたことで、パナルカンの地位はますます上昇した。

砂糖・コーヒー・タバコ葉などの輸出物産がパナルカン港に届けられ、やって来るヨーロ
ッパ船に積み込まれてドイツのブレーメンやオランダのロッテルダムに送られた。そのこ
ろ、オランダには東インドから砂糖・塩・米・熱帯果実類などが豊富に送られてきていた
と語っている記事がある。19世紀終わり頃タパルクダ地方に鉄道網が築かれていくと、
パナルカンに届く貨物の量も増加した。[ 続く ]