「インドネシア鉄道史(33)」(2025年11月12日) 1903年に鉄道がバニュワギの方に引かれたのだから、その前からバニュワギ港がバニ ュワギ地方の中心港になっていたのは間違いないだろう。19世紀にこの港は域内で生産 されるコプラの大輸出港になり、またオーストラリア向けのバナナ輸出がこの港から行わ れ、域内住民にとってメッカ巡礼の出発港にもなっていた。おまけに東インド政庁はこの 港をバリ島に渡るための渡海港にしていたから、鉄道がやってくる必然性は大いにあった ように考えられる。 バニュワギ港に鉄道がつながったことによって、タパルクダ地方の輸出商品の一部も流れ て来るようになったのではあるまいか。その荷を求めて国際船の来航も増えたことだろう。 オランダの商社が事務所を開き、貿易業務のために雇われたオランダ人が住むようになっ て、バニュワギの西洋化が進展した。 バニュワギ港の地名を地元民はPelabuhan Boomと呼んでいた。オランダ時代にはBoomとい う言葉が港を表すようになったために、ヌサンタラのあちらこちらで歴史的な港にその言 葉が付けられているようだ。ボームというオランダ語は英語のtree, beam, boom, pole, bar, barrierという意味を持っている。 昔、オランダ人は占拠した外国の河口で川を上下する船から通行料を徴収した。そのとき、 船に逃げられないようにするために丸太を一本、川の両岸につないで船が絶対に通れない ようにした。つまりバリアーだ。港でも丸太を使って港湾使用料を払わなければ港から出 られないようにした。港に関わるボームとはそれのことだという解説がある。 元々バリ海峡の中ほどにあって大型船に望ましくない地勢だったことに加えてカリロ川を はじめとする川の土砂堆積が港の水深を浅くする宿命を抱えていたバニュワギ港は、最終 的に港の機能をもっと北にあるクタパン港に奪われてしまった。1950年代からバニュ ワギ港移転の話が出されるようになり、移転計画に従って鉄道線路もカバッからクタパン への分岐路が建設され、18KMの建設工事が完了して1985年9月7日に新路線のオー プニング式典が行われた。そのルートは次のようになっている。 Kabat - Banyuwangi Kota - Argopuro - Ketapang カバッ〜ダダパン〜バニュワギ〜バニュワギハーフェン路線の公式閉鎖は1988年3月 31日だった。旧バニュワギ港は港でなくなり、名称もPelabuhan BoomからPantai Boom に替えられて今は市民のための行楽エリアになっている。バニュワギ港駅舎も解体されて 地上から消滅してしまった。[ 続く ]