「インドネシア鉄道史(39)」(2025年11月18日)

アニエルとムラッという当時の二大港に鉄道をつないだSSは続いてアニエルから35キロ
ほど南に下ったラダ湾に面する港ラブアンへの鉄路建設を開始した。これは既に設けたバ
タヴィア〜アニエル路線にあるランカスビトゥンから支線を延ばす形で行われた。ランカ
スビトゥン〜ラブアン56.6KMのルートは次のようなものになった。
Rangkasbitung - Warunggunung - Cibuah - Pandeglang - Cimenyan - Sekong - Saketi 
- Sodong - Kananga - Menes - Babakablor - Labuan

この路線のオープニング式典は1906年6月18日に挙行された。1920年代半ばご
ろ、この路線は大きい賑わいを示し、日々5便の往復運行が行われていた。始発はラブア
ン駅を5時13分に出てランカスビトゥンに7時51分に到着し、最終便はランカスビト
ゥン発16時でラブアン着が18時24分だった。

列車は客車と貨車がつながれ、客車は二等と三等に分けられていたそうだ。乗降客と貨物
のもっとも多い駅はもちろんランカスビトゥンで、その次がラブアンだった。1950〜
53年のデータによれば、ラブアン駅乗降客は年間5〜13万人、取扱貨物は7千トン近
くに達した。その次が年間利用者4〜9万人のムネス駅だった。

この路線でもっとも目立った貨物はラブアン港で水揚げされる海産魚であり、その大半が
ジャカルタまで運ばれた。反対にラブアン港に届く貨物はタナアバンから送られてくる塩
がメインを占めた。塩魚の生産素材なのである。このランカスビトゥン〜ラブアン線は1
984年1月1日に閉鎖された。


ランカスビトゥン〜ラブアン線の途中にあるサクティ駅を2015年9月にコンパス紙記
者が廃線ルポのために訪れたとき、駅舎に住んでいる地元民がさまざまな昔話を物語って
くれた。かれは2005年にサクティ駅舎を自分で改装したそうだ。

1970年代にゴムの廃木を丸太で買って5x75センチの板に挽き、10枚一束にした
ものを2千束、サクティ駅からタナアバンに送った体験もそのひとつだった。鉄道のおか
げで実に簡単に送ることができた。トラックを使ってあんなことをすれば、たいへんな手
間暇がかかっただろうとかれは述懐する。一束50センだったから、その仕事でかれは1
千ルピアを手に入れた。当時としては結構な金額だった。

サクティ村チルンドゥ部落の住民女性も、小学生のころ祖父の住むランカスビトゥンへ汽
車に乗ってよく行った話を物語った。サクティ発午前6時の汽車は10時にランカスに着
く。そして15時ランカス発の便でサクティに戻った。到着は19時だった。

かの女は途中の停車駅の名前をすらすらと口にした。そして「レールはR25だったんです
よ。」という言葉が続いて耳に入ったことに記者は驚いた。R25とは1メートル当たり2
5KGの線路という意味だ。一般に知られていないそんな知識をどうしてこの女性は持って
いるのだろうか?それは父親がサクティ駅で働いていたからだった。かの女の父親はサク
ティ駅の転轍係だったのである。[ 続く ]