「ジャカルタの電車(1)」(2026年01月03日) バタヴィアの街を路面軌道車両が走ったのは1869年4月20日が事始めであり、18 67年8月10日のスマラン〜タングン間汽車商業運行の開始と一年半程度の違いしかな い。ただしバタヴィアの路面軌道車両は鉄道馬車だった。アムステルダムポーツからチュ ンケ通りをバタヴィア市庁舎に向けて下り、そこからハルモニまでほぼ一直線に南下する 1188ミリゲージの線路が敷かれてその上をカハルと呼ばれた38人乗りの客車1両が3〜 4頭の馬に引かれて走った。 1869年4月20日 Amsterdamschepoort - Postkantoor - Gouverneurskantoor - Dept. van Justitie - Vorrij Zuid - Glodok - Molenvliet West - Harmonie Amsterdamschepoortは今のチュンケ通り北端 Postkantoorは今のJl Pos Kotaにあった Gouverneurskantoorはバタヴィア市庁舎 Dept. van Justitieは今のMuseum Keramik Vorrij Zuidは今のJl Jembatan Batu Molenvliet Westは今のJl Gajah Mada 日付は開通日を示している。 鉄道馬車の運行時間は午前5時から夜8時までで、5分ごとに馬車が一台通ったというイ _ア語情報が見られる。御者はクラクションとしてラッパを吹き鳴らした。馬の動きを統 御するために鉄製のくつわが馬の口に噛ませられ、御者がその紐を手綱と一緒に握った。 後の時代になって、この鉄道馬車時代を表現するのに、zaman kuda gigit besi(馬が鉄 を噛んだ時代)という慣用句ができあがり、更には「古い昔」を形容する紋切り型インド ネシア語句になった。つまり「馬が鉄を噛んだ時代」という慣用句は今から百数十年前の 時代を指しているものであって、決してフリントストーンの時代ではなかったのだが、今 では「ともかく古い時代」を指すクリシェとして使われている。 その後さらにハルモニからタナアバンに南下していく線と東に折れて水門橋〜パサルバル 〜ヴァーテルロー広場〜スネン〜クラマッ〜マトラマン〜メステルコルネリスというルー トを取る線に分岐する形で延長がなされた。 この鉄道馬車事業を行ったのは公共旅客運送会社のBataviasche Tramweg Maatschappij (略称BTM)バタヴィアトラムヴェフ会社だった。1880年、BTMは経営問題のために操業 維持が困難になり、馬トラム運行業務はFirma Dummler & Co.が代行するようになったと いう解説がある。 その問題が解決したのだろう、1881年9月19日にBTMはオランダ東インドトラムヴ ェフ会社Nederlands-Indische Tramweg Maatschappij(略称NITM)に社名変更し、事業内容 を馬トラムから蒸気トラムに変えた。ドイツのホエンツォランHohenzollern社製蒸気機関 車を輸入して1883年7月1日からアムステルダムポーツ〜ハルモニ間で運行を開始し たのである。 1883年7月1日 Pasar Ikan - Amsterdamse Poort - Batavia - Glodok - Prinsenlaan - Kaligoot - Harmonie 続いてその年8月5日にハルモニ〜クラマッ間に運行区間が延ばされ、クラマッ〜メステ ルコルネリス間は1884年9月15日から始まった。メステルコルネリス〜カンプンム ラユターミナル間蒸気トラム運行は1891年2月28日に開始されている。 1883年8月5日 Harmonie - Rijswijk - Noordwijk - Schouwburg - Waterlooplein - Stoviaweg - Tramremise - Kramat 1884年9月15日 Kramat - Poelo - Salemba - Koning Willem III - Berenlaan - Koningin Emmalaan - Meester Cornelis 1891年2月28日 Meester Cornelis - Grote Pasar - Kampong Melayoe [ 続く ]