「ジャカルタの電車(5)」(2026年01月07日)

電気トラムも朝6時から夜7時まで運行した。速度は時速20〜30kmで、交差点では
交通警官のゴーストップ指示に従って止まった。信号機のまだない時代だったから、プリ
ブミの交通警官が信号板を持ったり背負ったりして交差点の真ん中でぐるぐる回っていた
ようだ。

電気トラムは全三両編成で、車両ごとに一等・二等・三等に分けられ、一等の乗車料金は
一回20セン、三等は10センだった。一等乗客数は総数の15%くらいだったという情
報がある。

日本軍のオランダ東インド占領によって、1942年7月から電気トラムは日本軍の管理
運営下に置かれた。公式名称は西部ジャワ陸輸局バタヴィア市電(インドネシア語情報で
はSeibu Rikuyo Batavia Shidenやそれに類似の表現になっている)と変更され、しばら
くしてJakarta Shidenに改名された。日本軍政期には、車両等級制度が廃止されて1〜3
等という区別がなくなった。またグヌンサハリからジャティヌガラ手前のパルプティPal 
Putihまで複線化がなされている。


1945年8月17日に独立宣言を行ったインドネシア共和国のジャカルタ市政はジャカ
ルタ市電の管理運営を掌握し、1945年10月13日にTrem Jakarta Kotaという名称で
インドネシア人による事業運営を再開させた。しかしNICA政府がジャカルタを奪還すると
またオランダ人による事業運営に戻されてVBMがその運行を行った。

ハーグ円卓会議でインドネシア共和国の主権承認がなされたあともVBMはジャカルタの市
電運行事業を1954年まで継続した。そして植民地時代の民営企業をインドネシア共和
国の国有事業にする原則に従って、国有会社として設立されたPengangkutan Penumpang 
Djakarta(現在バス会社になっているPerum PPD)にその年の4月15日、市電運行事業
が移管されたのである。

スカルノ大統領はPPDに対して、公共大量輸送機関としての路面電車はこれからの時代
にそぐわないものであり、路上から地下に移す方向で考えていかなければならないのだが、
それが実現されるまではバスによる運送を伸ばして行き、路上スペースを自動車に譲るた
めにジャカルタ市電は廃止せよ、と命じた。

それを聞いてジャカルタ市長のスディロは驚ろき、ジャカルタ市民の足になっている市電
を廃止しないでほしいと大統領に歎願した。しかし大統領は頑として聞く耳を持たない。
全線一斉廃止はしないで少なくともスネン〜ジャティヌガラ間という商人層の足になって
いるルートだけは当面残してほしいと粘ったが、大統領は首を縦に振らなかった。こうし
て1962年にジャカルタ市電は廃止され、歴史の中に埋没してしまった。

送電架線と電柱はすべて取り払われたが、線路の撤去作業の費用が線路の屑鉄販売見込み
金額を上回るためにその作業は行われず、アスファルトで路面下に埋められた。路面鉄道
ルートが通っていた道路は掘り起こせば線路が出て来るはずだ。2006年にバタヴィア
市庁舎一帯の道路整備が行われた際に、ピントゥブサール通りで電車トラムの線路が掘り
出されている。[ 続く ]