「ジャカルタの電車(6)」(2026年01月08日)

NISが行っているバタヴィア〜バイテンゾルフ線汽車運行にも、その間にさまざまな変化
が起こった。まずNISにとっての強力なコンペティタ−が出現したことが挙げられる。そ
れまでオランダ東インドの汽車運行事業はNISの独壇場だったものが、1875年になっ
て国有鉄道会社Staatsspoorwegen (略称SS)を東インド政庁が設立したのである。SSは民
間資本が興味を示さない地域で鉄道事業を展開し始めた。言うまでもなくSSは、オペレー
タであると同時にレギュレータとしての立場を併せ持った。NISにとっては行政監督者と
いうことになる。

次いでバタヴィア港の移転が行われた。今はスンダクラパ港と呼ばれている昔のバタヴィ
ア港は大型船舶の入港接岸ができない。そのために1860年代から東インド政庁内でバ
タヴィア港移転方針が取り上げられ、現場サーベイが行われてタンジュンプリオッに新港
を建設することが決まった。

NISのバタヴィア〜バイテンゾルフ線はプリアガン地方からコーヒー・紅茶・キニーネな
どの輸出産品をクライネボームまで運び、カリマンタンから送られてくる石炭をバタヴィ
アからプリアガン地方にかけてのエリアに輸送していた。

新港の建設工事は1877年に始まり、第一期工事が完成したのは1886年だった。こ
の新港に鉄道線路を敷く計画は最初から立てられており、NISが1878年にプリオッ新
港の埠頭入り口とHeemradenplein駅を結んで線路を敷設した。時の東インド総督であるフ
ァン ランスベルへ第58代総督(在任1875〜1881年)は1878年3月28日
に催されたタンジュンプリオッ港オープニング式典に出席するため、新たに敷かれた鉄道
でタンジュンプリオッに向かった。しかし総督が汽車に乗ったのはバタヴィア乗客駅でな
くヘームラデンプレイン駅だったのである。現在のJakarta Gudang駅がそのヘームラデン
プレイン駅のことだ。


ヘームラデンプレインはカンプンバンダンに設けられた鉄道車両デポであり、ヘームラデ
ンプレイン駅というのはデポ内に作られた貨物駅であって、乗客駅であるバタヴィア駅と
は別の回線になっている。タンジュンプリオッ港〜ヘームラデンプレイン駅間の列車運行
は1885年11月2日からSSが行うようになったとイ_ア語ウィキペディアに記されて
いる。それ以降に港とバタヴィア乗客駅が結ばれた可能性が無きにしもあらずだが、その
ポイントに言及しているイ_ア語情報は見つからない。

一方、1900年ごろにタンジュンプリオッ〜バタヴィア間とタンジュンプリオッ〜クマ
ヨラン間を一日40便の列車が往復しており、SSがその運行を実施していたという情報が
ある。その時期のタンジュンプリオッ〜クマヨランという路線はBOSの敷いたBatavia BOS 
- Goenoengsarie - Pisangbatoe - Kemajoranという線路に乗り入れなければならない。

タンジュンプリオッからバタヴィア駅にやってくる線路はNISでなくてBOSのバタヴィア駅
につながっていたことがその情報から判断できる。しかしNISが設けたタンジュンプリオ
ッ港〜ヘームラデンプレイン駅路線でSSが運行オペレーションを行うようになってから、
線路がNISバタヴィア駅につなげられたのかどうかについての情報が見つからないのだ。

イ_ア語ネット記事の中には、NISは最初からタンジュンプリオッ港とNISバタヴィア駅を
つないだように理解していると思われる内容のものが少なくない。SSがBOSを買収してタ
ンジュンプリオッ港からの線路をバタヴィアBOS駅につないだとき、それまでプリオッか
らやってくる線路はいったいどこにつながっていたのだろうか?

パサルイカン近辺にあった旧バタヴィア港の港湾施設や入出国管理機構はすべてタンジュ
ンプリオッに移されて、旧バタヴィア港はパサルイカン港に呼び名が替わった。この新港
への移転に伴ってNISはクライネボーム〜バタヴィア区間を閉鎖した。[ 続く ]