「ジャカルタの電車(8)」(2026年01月10日)

NISは現在のジャカルタコタ駅の北側にバタヴィア駅を設けた。オランダ東インド政庁法
務局の南、バタヴィア市庁舎の東に隣接する位置に建てられ、ペロンは東北東に向いて開
かれていた。現在その土地にはBNI銀行の諸施設が建ち並んでいる。

ペロンからほんの百数十メートル先にVOCが設けたバタヴィア城壁の外を取り囲む濠が
ある。元々Stadsbuitengrachtと呼ばれていた濠は南北に流れており、北北西に直進して
からバタヴィアカスティルの東と北をなぞってパサルイカンの水路に流れ込む。だが現代
のジャカルタ地図はその水流をチリウン川(の支流)と呼んでいる。その流れは言うまで
もなく、現在のジャカルタコタ駅のペロンを出入りする線路の下をも通っている。

ジャカルタコタ駅の線路を支えている橋と北のクニル通りの橋の中間点よりちょっと南の
位置に住民が使っている仮設橋がある。そこはNISバタヴィア駅のペロンに出入りする線
路が通っていた橋であり、その仮設橋の下には昔の線路がいまも残されていると言われて
いる。その橋の橋脚はいまだに健在でグーグルアースやグーグル地図に写っているから、
その長さを測定して南のジャカルタコタ駅の線路を支えている橋の長さと比べてみれば
NISバタヴィア駅がどのような規模だったかを推測できるかもしれない。


BOSは1887年に現在のジャカルタコタ駅の場所にバタヴィア駅を建てた。1887年
以来、バタヴィア駅という言葉は多義性を持つようになったため、世間はバタヴィア北駅
・バタヴィア南駅あるいはバタヴィアNIS駅・バタヴィアBOS駅という言い方で区別するよ
うになった。

そして1898年にバタヴィアBOS駅がSSの資産になったにもかかわらず、世の中は相変
わらずバタヴィアBOS駅と呼ぶ習慣を続けた。これはわたしの想像だが、BOSはボスと言わ
ずにベーオーエスあるいはベーオスと発音されていたのではあるまいか。今のジャカルタ
コタ駅の別称がべオスになっていることからそんな推測が脳裏に浮かぶ。

そして1913年にバタヴィア北駅もSSの資産になった。SSはふたつのバタヴィア駅を一
本化する動きを始めた。


現在のJl Lada No.1にNISが建てて1871年9月15日にオープンしたバタヴィア駅は
1929年に閉鎖されて取り壊された。1913年にSSがNISのバタヴィア〜バイテンゾ
ルフ線を買収した時、NISのバタヴィア駅は公式名称が以前のBatavia Hoofdstationから
Batavia Noordに変更された。BOSのバタヴィア駅の別称であるBatavia Zuidがそのとき公
式の駅名にされたのかどうかはよく分からない。

1923年になって、SSが買収したふたつの路線を統合するためにバタヴィア北駅の拡張
工事が始まった。その拡張工事は臨時のものであって、最終的にバタヴィア南駅に統合駅
舎を建設し、バタヴィア周辺地区の蒸気鉄道路線網のターミナル駅にするという方針をSS
が立てたのだった。

バタヴィア北駅の拡張工事が1926年に完了すると、列車はすべてバタヴィア北駅に発
着するようになった。続いてバタヴィア南駅の建て直し工事が開始された。そして現在の
ジャカルタコタ駅のあの姿が1929年8月19日にバタヴィア市民の前にお目見えした
のである。公式オープニング式典はアンドリース・コルネリス・ディルク・デ フラーフ
第68代東インド総督出席のもとに盛大に挙行された。

この新駅の公式名称はStation Batavia Benedenstadと命名された。バタヴィアダウンタ
ウンの意味だ。しかし世の中には相変わらずべオスとそれを呼ぶ人間が少なくなかった。
ダウンタウンはインドネシア語でkotaに該当するから、benedenstadをkotaに替えて述べ
る人もいたのではあるまいか。[ 続く ]