「ジャカルタの電車(9)」(2026年01月11日) 昔からわたしはKota JakartaとJakarta Kotaの意味の違いに頭を悩ませてきたのだが、オ ランダ時代にオランダ人がオランダ語の修飾語法に従ってインドネシア人が使う修飾語法 と逆の形態で駅名を付けていたことを知って、目の鱗が一枚落ちたような気になった。 Soerabaja Kota, Malang Kota, Modjokerto Kota, Cepoe Kota, Banjoewangi Kotaなどと いう駅名はインドネシア語の単語をオランダ式の修飾語法に従って並べたものではあるま いか。es tehとteh esの関係と瓜二つのようにわたしには思えた。 しかし現代インドネシア人はKota JakartaとJakarta Kotaを併用し、それぞれに微妙に異 なる語感を込めて使うようになっており、解釈が難しい。コタの語義も多義的であり、町 であり下町であり繁華街であり昔の城壁都市でもあり、おまけに行政区画の一カテゴリー にまでコタの語が使われているため、話者がどれを意図して使っているのかを推察し、お まけにコタとジャカルタの語順の違いによって話者が重点を置いているポイントを想像し なければならず、この言葉のディクションに関する限り、相互理解がほぼ不可能になるの ではないかという気がしている。 1913年に行われたその買収の結果、ジャワ島西部地方の汽車鉄道網はチルボン〜スマ ラン間を除いて全線がSSの運行路線になった。首都バタヴィアとその近郊一円の鉄道路線 電化に着手するための条件が整ったと言えるだろう。 オランダ東インド植民地における鉄道政策の原則が諸物産物資の産地から港への輸送を最 大の目的にしていたことは周知の事実だ。インドネシアの鉄道事業は、路面電車が市域内 の乗客輸送を主目的にしていたのに対して、汽車鉄道事業は長距離貨物輸送をメインの使 命にしていた。ビジネスの見返りは圧倒的な比重で貨物輸送活動から得られた。ところが SSはバタヴィア首都圏で乗客輸送の理想スタイルである鉄道電化をも実施したのである。 ジャカルタ首都圏の鉄道型輸送機関はもちろん乗客輸送が主目的であり、貨物輸送ではな い。だからこそ電化が行われたのである。貨物輸送ならばジャカルタの街中を通過してタ ンジュンプリオッに行くだけであって、貨物輸送列車の電化を考えたSSの幹部はいなかっ たのではあるまいか。 貨物輸送の電化でその投資に見合うメリットが得られたら問題は何もないのだが、20世 紀の前半に貨物鉄道輸送の電化に果たしてどのようなメリットがあっただろうか。20世 紀という時代を眺めてみるかぎり、インドネシアの鉄道電化は人口集中地区でのコミュー タ運送ビジネスの枠内でしか発展の余地はなかったように思われる。 ジャワ島は人口が多いにもかかわらず電化が遅れているといった見解は、インドネシア鉄 道史への理解が欠落したものという印象を感じさせずにはおかないだろう。インドネシア の鉄道電化はコミュータ電車事業の経済性が成り立つ範囲でしか実現しないものであり、 その最大ファクターのジャカルタ首都圏電車路線網が既に実現しているのだから、遅れて いると見るのでなくて終わっていると考えるほうが妥当なのではあるまいか。 スエズ運河を抜けてヨーロッパからやってくる大型蒸気船がタンジュンプリオッ港に接岸 するようになれば、上陸した多数の乗客をバタヴィア市内に運ぶ交通機関の必要性が高ま る。アジアに冠たるバタヴィアの名声を維持するために、乗客に対する優れた輸送インフ ラ建設とサービスはオランダ東インド政庁にとって不可欠のものになった。 SSはその目的のためにオランダ東インドで最高最大の駅舎をタンジュンプリオッ港の埠頭 から1キロほど南側に建てた。3,768平米の敷地に建てられた地下1階地上2階建て の駅舎にはホテル・バー・レストラン・ボールルームなどが備えられ、国際港にふさわし い豪壮な鉄道駅のたたずまいを示した。あたかも国際航路船舶のターミナルビルに鉄道が 入っているという雰囲気を醸し出していたのかもしれない。こんな鉄道駅はオランダ東イ ンドのどこを探しても他に見つからない。 南西に向いたペロンの大ホールには8列車が入れるようになっており、8対のレールがプ ラットフォームをはさんで並んでいた。当時のバタヴィア駅舎ですらそんな規模で作られ ていなかったために、全国最大の豪華さを持たせるために無駄な見栄を張ったという批判 が出されたという話が語られている。[ 続く ]