「スカルノのジャカルタ(1)」(2026年01月21日)

ジャカルタ中心部にあるMentengという地域名称の由来をBaccaurea racemosaという学名
の東南アジア原産樹種から取られたものと述べている説が一般的だ。その木はコミカンソ
ウ科に属し、食べられる果実を着けるが渋味と甘味が混じっていて、たいてい渋味が強い
から渋味に弱いひとにはあまり好まれない。時に運よく甘味の強力なものに出くわすこと
もある。この木や果実をkepundungと呼ぶひともいる。

それとまた別に、多大な貢献をもたらしたブギス人Daeng MentengにVOCが広い土地を
与えて住まわせたことからメンテンという地名が使われるようになったという説もある。
ジャティヌガラの旧名であるメステルコルネリスやその南にあるチャワンなどという地名
もそんなプロセスでできあがったものだ。そのような人名やあるいは職名に因んでできた
地名もいくつか見られる。

インドネシア初心者になったころ、KebayoranとKemayoranという場所の離れた別々の地名
を取り違えた経験がわたしにある。ややこしい地名をつけたものだと思ったが、ひとつは
bayurという樹種名から取られたもの、もうひとつはmayorという軍隊階級名からできたも
のであることを後で学んだ。

現在のジャカルタ特別州の中でメンテンは中央ジャカルタ市の郡の名前であり、メンテン
郡の中にメンテン町がある。メンテン郡はメンテン・プガンサアン・チキニ・ゴンダンデ
ィア・クブンシリの5町で構成されていて、メンテン町はTaman Suropatiスロパティ公園
を中心にする南部地域を占めている。

メンテン郡の住民人口は1980年に12.6万人だったものが1990年に9万人にな
り、2000年7.5万人、2010年6.8万人と減少していった。しかし2020年
には8万人超に回復しているようだ。


バタヴィアのコニングスプレインオースト(今のJl Medan Merdeka Timur)を南東方向に
プラパタン地区を越えて下って行った辺り、クウィタン地区の西側一帯がメンテンという
地名で呼ばれていたように思われる。メンテンラヤ通りからチキニ通りにかけてのエリア
がそれだ。

1898〜1899年ごろのバタヴィア地図を見ると、バタヴィア中心部のレイスヴェイ
ク〜コニングスプレインから南側はタナアバン地区とパサルスネン地区を東西方向で結ぶ
クブンシリ通りからプラパタン通りにかけての一帯、そしてパサルスネンからバイテンゾ
ルフに向かう南往き街道(De Groote Zuiderweg)が通過するクラマッ〜マトラマン〜メス
テルコルネリスに街並みが続いているだけで、Kampoeng Limaと呼ばれていたクブンシリ
通りの南方地区は人影まばらなエリアだったことがわかる。そこに面積およそ6百Haの西
洋人向けニュータウンが設けられることになったのだ。南往き街道については拙著: 
https://indojoho.ciao.jp/koreg/hzuider.html 
をご参照ください。

オランダ東インドの民間資本受け入れと民営事業振興という政府方針のおかげで19世紀
第3四半期ごろから東インドへの西洋人移住者の増加が始まっていた。その流れは193
0年代の世界不況で困窮した西洋人知識階層が経済状況のあまり悪化していないオランダ
東インドに続々と移住してきたことで決定的になった。

バタヴィアに西洋人居住地区を開発する必要に迫られていた政庁は1910年ごろからそ
の対策を開始していたために、その流れはうまく収まったように見える。東インド政庁が
それを目的にしてバタヴィアで白羽の矢を立てたのがカンプンリマ地区から南部にかけて
の広大なエリアだった。そしてそのエリアがメンテン地区と呼ばれるようになった。

わたしの推測では、元来のメンテン地区は現在のメンテン地区の北東部に位置するエリア
だったように思われる。もちろんニュータウンの建設はそのエリアから着手されたのだ。
そしてそのニュータウンが西と南に広がって行った末に、ニュータウン全域がメンテンと
呼ばれるようになって現在に至っているのではないかという憶測をわたしは抱いている。
[ 続く ]