「スカルノのジャカルタ(2)」(2026年01月22日) 時代が大幅に違っていたという要素があったにせよ、古い時代の移住者はたいていが事業 オーナーや事業経営者あるいは専門技能者であり、熱帯の植民地事情に自分を適応させて 暮らすことを苦にしない精神を持つひとびとがメインを占めていたのに反して、地球的規 模の大不況下に続々とやって来た移住者は知識人がマジョリティを占め、かれらは本国の ライフスタイルを植民地で続けることを望んで、植民地という風土に妥協した折衷風生活 環境でない、純西洋的な暮らしの営める環境を要求した。古い世代の移住者とは精神構造 の相当離れた人種だったということのようだ。 自分たちの生活行動空間は白人文化の社会であり、そこにいるインランダー(プリブミ) は召使や使用人であるという観念にもとづいたビヘイビアをかれらは示した。「犬とイン ランダーの入場禁止」という表示が出されるようになったのはその時代だ。言うまでもな く客としてインランダーが入場するのを禁止しているだけであって、客にサービスする使 用人インランダーがいなければその施設は立ち行かないだろう。 その面を捉えるなら、古い世代の人種差別は個人個人の考え方や人間観に従う面が強かっ たのに比べて、新世代の人種差別は社会生活の中に築かれた構造的なものに変化したと言 うことができるかもしれない。社会生活様式の中に人種差別が持ち込まれたなら、差別行 為は鉄壁のエクスキューズを持つことになる。 富裕な上流プリブミ階層を含む西洋人のためのニュータウンを設ける構想は、地域にいる 先住者インランダーの追い出しを伴った。カンプンリマなどの対象地一帯に住んでいた貧 困層ブタウィ人集落や東洋人在留者の住居・店舗などが撤去され、かれらはカレッ地区や タナアバン地区に強制移住させられた。往々にしてその補償があまりにも貧弱であったた めに、MHタムリンら東インド参議会プリブミ議員が批判の舌鋒をふるってプリブミ小市民 の保護に努めるできごとがあったそうだ。サリカッイスラムがかれらを擁護してオランダ 人社会に十分な補償を要求したと語っている論説もある。 1903年にオランダ東インドに移住したオランダ人建築家のPieter Adriaan Jacobus Moojenは現在のメンテン地区に大規模な公園都市を設ける構想を立て、政庁の承認を得て 1910年にその実現に着手した。かれはまずNieuw-Gondangdia地区にリアルエステート 会社のN.V. de Bouwploegを設立して、代表取締役に就任した。 プラパタン地区の南側が元来のメンテン地区であり、メンテン地区の西がゴンダンディア 地区だ。ゴンダンディアを南に伸ばしたニューゴンダンディアにドゥ ボウプルフ本社社 屋が置かれたのはそういう地の利のためだったように思われる。これから開発しようとい う大原野の真ん中にぽつりとオフィスを構えるわけにはいくまい。 ドゥ ボウプルフという言葉は建設チームを意味するオランダ語だが、地元民はBoploとい う言葉に単純化し、そう発音してそう綴った。1912年に建てられたドゥ ボウプルフ 株式会社の建物は今、チュッムティアモスクになっている。ゴンダンディア駅からほど近 い鉄道線路のすぐ東側に建てられたドゥ ボウプルフ社屋はモーイェン自身が設計したも ので、モスクとして使われている今もそれなりに独特の雰囲気を漂わせている。 モーイェンはバタヴィアを訪れてからバタヴィアの代表的な大型建築物を見て回り、ギリ シャ風の大きな円柱をファサードに置いている古典的スタイルを批判したそうだ。また世 話をするのに手間のかかる構造をしていることに目を向け、たくさんの人手を必要とする その構造のために多数の人間を使わなければならず、そのために使用人の居住スペースが 大きくなることの非合理性を指摘した。プリブミを廉価に使えるという過去の植民地事情 に向けられたモダン精神の一太刀がそれだったようだ。モーイェンは装飾的なインペリア ルスタイルとインドネシアのローカル建築様式を融合させた建物をデザインし、インディ ッシュ様式と呼ばれるスタイルの先駆けになった。[ 続く ]