「スカルノのジャカルタ(3)」(2026年01月23日)

かれのバタヴィアでの最高傑作と言われているのが1914年にVan Heutsz Boulevard 
(今のJl Teuku Umar)1番地に建てられたNederlandsch-Indische Kunstkringのアート
ギャラリー館建物で、絵画展示会や音楽会など諸芸術活動の会場になっていた。モーイェ
ンがクンストクリンの会長だったと述べている記事もあるが、この芸術協会は1902年
に結成されたものであり、代々の東インド総督がパトロンになっていた。協会は自前の本
部建物を持っていなかったために、それを実現させようとして資金を募り、ドゥ ボウプ
ルフ社がそのための敷地を寄贈した。ヨーロッパで著名な芸術家が東インドを訪れると、
たいていこの建物が会場になった。1936年にはシャガール、ゴッホ、ピカソらの作品
展示会が開かれている。

1942年に日本軍がバタヴィアにやってきたとき、イスラム団体アッラインドネシアイ
スラム評議会がクンストクリン館を奪取した。イスラム教に弾圧的姿勢で臨まないことを
インドネシア統治方針の中に置いていた日本軍はそれを放任した。1945年の共和国独
立後に政府がその建物を接収し、1993年までイミグレーション局がその建物を使用し
た。今は民間企業が高級レストランにして使っている。

この建物は東インドで初めて建てられた鉄筋コンクリート製の建物として建築関係者の間
で知れわたっているものだが、インドネシア建築史最初の鉄筋コンクリート製建物という
のは1909年にモーイェンがノルドヴェイク34番地に建てたNederlandsch-Indiesche 
Levensverzekering en Lijfrente Maatschappij(通称Nillmij)の社屋であり、それがバ
タヴィアでのかれの大仕事の幕開けだったようだ。

ニルメイはインドネシア政府が1960年に国有化して、一旦はPN Asuransi Djiwa Eka 
Sedjahteraとして再編されたあと1965年に国有保険会社PN Asuransi Djiwasrajaに統
合されている。モーイェンは他にもクラマッの電車トラムデポ建物を鉄筋コンクリートで
作っている。

そのドゥ ボウプルフ株式会社自体は1928年に破産宣告を受け、翌年にモーイェンは
オランダに帰国した。しかしメンテンニュータウンの建設はその後も続けられて、オラン
ダ東インドが日本軍に占領されたころは既に完成していた。

二階建てのドゥ ボウプルフ社屋建物は会社が無くなったあと水道局がそこを使い、それ
から郵便局として利用され、日本軍政期になって帝国海軍がそこに入った。独立革命期に
は国有鉄道会社Staatsspoorwegenの事務所になり、独立インドネシア共和国政府はそこを
住宅局の事務所にした。1964年から70年まで国会事務局が主人になったあと政府宗
教省の手に渡り、1985年にチュッムティアモスクに変貌して今日に至っている。


バタヴィア市庁はメンテンニュータウンをヨーロッパにあるような理想都市にしようとし
て、街区・建物・インフラ・ユーティリティ・街路・公園からランドスケープに至るまで、
細かい規制をかけた。家屋の様式にも統一感が要求され、広い敷地に建てられた広い庭を
持つゆったりした家屋と離れ屋、優れた道路の規模や構造、環境にふさわしい並木と街路
樹種、余裕のある人造池や小公園などが居住者に快適で外来者の目にも心地よいメンテン
公園都市の実現を可能にしたのである。Hollandse villa's op Indische grond「東イン
ドの土地にあるオランダの別荘」がかれらのスローガンだった。

モーイェンの最初の町作りは元々のメンテン地区からニューゴンダンディア地区にかけて
の一帯だった。そこはメンテン公園都市の入り口に当たっていたため、メインゲートとし
ての華やかさを求めてかれはクンストクリン館やドゥ ボウプルフ社屋前の公園とファン
ハーツ将軍モニュメントを建て、道路脇の街路樹として大王ヤシを並べることなどを行っ
た。しかしメンテン公園都市のメインゲートは周辺地域の発展にともなってその意味を失
い、歴史の歩みの中で衰え、ついには消えて行った。[ 続く ]