「スカルノのジャカルタ(4)」(2026年01月24日)

1918年にFJ Kubatzがメンテン公園都市の中央から西にかけてのエリアに関して開発
計画の再編を行った結果、北からファンハーツブルファル、東にある南往き街道のサレン
バ地区から西に向かうOranjeboulevard(今のJl Pangeran Diponegoro)、西からはタナ
アバン地区南のクボンカチャンを西端にして東に進んで来るNassau Boulevard(今のJl 
Imam Bonjol)という三本の大通りが公園都市中央に設けられる行政シンボルとしての大
型公園Burgemeester Bisschopsplein(今のタマンスロパティ)に集中する形が実現され、
またカリグルシッとカリマランにはさまれた地区もメンテン公園都市の南部エリアに含ま
れることになった。

1934年になって公園都市の領域が更に南に広げられて、Guntur地区と呼ばれるカリマ
ラン(西バンジルカナル)の南側がNieuw Mentengとして含まれることになった。この辺
縁地区には低ランク所得層向け住宅地区が設けられた。

ちなみに、1925年のバタヴィア住民人口(メステルコルネリスを含む)は30万人で、
ヨーロッパ人はそのうちの2.5万人、そしてその3分の2がオランダ系プラナカンだっ
た。1930年には住民人口が50万人を超え、ヨーロッパ人は3.7万人になっていた。
オランダから東インドへの移住者は1920年に8千人、1929年6千人という数にの
ぼっていたものの、1932年には2千人を下回っている。ただしバタヴィアに住んだ数
はわからない。


オランダ時代に東北エリアに位置していたメンテンニュータウンの入り口はインドネシア
共和国になってから西側に移動した。南部に新しい高級住宅地が建設されてクバヨランバ
ルが誕生し、クバヨランバルとモナス広場を結ぶ儀典道路が1950〜60年代に完成し
たことで、ジャカルタセントラル地区がレイスヴェイク〜ノルドヴェイクからタムリン〜
スディルマン通りに場所を替えたのである。

南北方向に流れる交通量は西メダンムルデカ〜タムリン〜スディルマン通りが南往き街道
や東メダンムルデカ〜メンテンラヤ〜チュッムティア通りよりも多くなって、メンテン地
区へ入って行くルートはイマムボンジョル通りやパムカサン通りからのほうが便利になっ
た。おまけにクニガン地区でラスナサイッ通りの建設が1973年に開始され、1976
年5月4日に開通式が行われて、全長3.9キロのラスナサイッ通り北端が西バンジルカ
ナルや鉄道線路を越えてチョクロアミノト通りにつながったことからメンテン地区に入る
ゲートがまた増加した。

全10車線を持つラスナサイッ通りの建設はスディルマン通りの混雑緩和を目的にしたプ
ロジェクトであり、この通りの完成によってスディルマン通りの交通量が3割低下すると
言われていた。チョクロアミノト通りにつながる幅17メートル、長さ250メートルの
ラトゥハルハリ橋が交通の流れにボトルネックを用意したため、ラッシュアワーにメンテ
ン地区に入って行くドライバーの気を重くした可能性は高い。

それはともあれ、メンテン地区はすでにメインゲートという概念とは無縁のエリアになっ
ていて、その帰結として、最初メインゲートとして飾られたエリアから華やかさが打ち捨
てられることをだれも遺憾に思わなかったようだ。

オランダ本国で高名な建築家HP ベルラヘが1928年に東インドを訪れた際にメンテン
地区を視察して「まるでHilversumにいるような気がする」と評したそうで、本物のヨー
ロッパ地区という太鼓判が捺されたと行政当局は思ったにちがいあるまい。しかし別のイ
_ア語記事にはベルラヘが例えに取り上げた地名がアムステルダムのMinervalaanと書か
れていたりするのだが、それはともかくとして東インドへやってきた西洋人移住者たちの
求めているものがそこに実現されたということなのだろう。1920年代から40年代初
期まで、いや日本軍政期が始まったあとでも、メンテン地区はジャカルタ第一級の高級住
宅地区というステータスをわがものにしていた。[ 続く ]