「スカルノのジャカルタ(5)」(2026年01月25日) 外交官・大臣・ミリオネア実業家たちの住むそのヨーロッパ地区には権威豊かな歴史を持 つ邸宅が今でも残されている。そんな中にあって、華麗なデザインで建てられた豪邸はホ テルやコンベンションスポットとしての事業に使われているものが多い。そのひとつThe Hermitageはチキニ鉄道駅からほど近いチラチャップ通りに面している。 建築面積4百平米のその建物は最初、Telefoongebouwという名称でオランダ東インド政庁 電信電話局が事業場所のひとつとして1923年に建てたもののようだ。部屋数がたくさ んあり、部屋同士が二重扉のドアでつながる形になっていたからホテルとして使うのにも ってこいだったのではあるまいか。 だがすぐにホテルになったわけではなく、共和国になってからは国民教育省がその建物を 使い、その後私立大学の学舎になり、しばらく空き家になった時期もある。そしてエルミ タージュが2008年にオープンした。 バタヴィア初代市長の名を記念して造られたブルフメステル ビスホプスプレインの東側 7番地に1939年に建てられた豪邸はバタヴィア市長公邸だった。インドネシア独立後 はジャカルタ市長、そしてジャカルタが州になってからは州知事がそこに住んだ。中には 自邸に住んで公邸を使わなかったひともいる。1951年から3年間ジャカルタ市長を務 めたシャムスリジャルはその邸宅に住んだ最初のプリブミ市長だったそうだ。 4千平米の敷地に建てられたその邸宅は二階建てで、一階が床面積730平米、二階は5 00平米の広さを持っている。広い裏庭には鯉の群れる池があって樹木が生い茂り、歴代 知事のひとりは都庁へ出勤する前にそこで茶を飲みながら小鳥の声に耳を傾けていたとい う話も語られている。 市長公邸の南側10番地の屋敷は最初ドイツの金融機関の幹部社宅だったようだ。その後 石油会社の所有になり、現在はインドネシア共和国軍司令官の公邸になっている。 そのスロパティ公園から北東に直線距離で2百メートルほど離れた位置に大きい人造池が 掘られ、1926年に公園としてオープンした。Situ Lembangと呼ばれているその池はそ のエリアの湧水を溜める緩衝貯水池の機能を持たされていて、チデン川水流システム内の 一要素として機能していると説明されている。 公園の西側にある大邸宅は米国大使公邸だ。1920年代に建てられたその建物は最初オ ランダの商社Wellenstein Krause & Co.のバタヴィア支社長邸だった。この商社は茶葉を はじめプリアガン地方で穫れる農園産品の輸出をメイン業務にしていたようだ。1932 年にスラバヤ支社を閉鎖したという情報がイ_ア語ネット内に見つかるのだが、バタヴィ ア支社がいつまであったのかはよくわからない。メンテンのその邸宅が米国大使公邸にな ったのは1948年だった。 メンテン公園都市がインドネシア人のものになってから、スロパティ公園は繁華な場所に なった。夜になると飲食品を作り売りする物売りがやってきて、そこに集まって来る若者 たちの腹を満たした。集まって来る若者たちはもちろんパチャランのためにやってくる者 がマジョリティを占めていた。しかし中には廉価に腹を満たしたいジョンブロも混じって いたことだろう。 わたしの記憶にある1970年代前半のスロパティ公園は絵画ギャラリーの趣が強かった。 ジャカルタの絵描きたちが自分の作った作品を持ってきて、道路脇に並べるのである。半 円形になっているタマンスロパティ通りの道路沿いに並べられている絵画を眺めながら車 でそこを通過したことが何度もあった。[ 続く ]