「ルスンはフラット(前)」(2026年01月25日) インドネシアの歴史始まって以来最初の庶民層向け積層住宅がジャカルタのタナアバン地 区に建てられた。タナアバン地区の一画を占めるクブンカチャンエリアに元々あった4Ha ほどの墓地の上で1978年から建設が開始され、1981年4月21日にスハルト大統 領がオープニングを宣した。積層住宅はシンガポールに倣ってflatと呼ばれたが、rumah susun略称rusunがインドネシア語の正式名称だった。 4階建てのアパート棟が並び、屋内床面積36平米の住居が960ユニット用意された。 そのうちの480ユニットが販売され、240ユニットは購入資金を持たないひとびと用 に賃貸され、残る240ユニットはこの建設プロジェクトのために土地を明け渡した住民 に支給された。 インドネシアで初めての積層住宅居住者の中に、自分の家はまるで鳩小屋だと感じた人も いた。鳩を趣味にしているインドネシア人が作る鳩舎はアパート型なのだ。自分の住むル スンを外から眺めたかれらの心に自分が鳩になったイメージが浮かんだことだろう、 だが寝室が二つと応接間、食堂、浴室、洗濯場、干し物場を兼ねたベランダが備えられた 各ユニットは、もっと後の時代にジャカルタに続々と建てられたルスンに比べてゆったり していた。各ユニットには電気・水道・ガスが供給され、パイプで送られてくる天然ガス のほうがボンベ詰めのLPGよりずっと安かった。 庶民層向け積層住宅のアイデアはオルバ時代に始まったものではない。1953年から1 960年までジャカルタ市長を務めたスディロは、1443年に人口43万人だったジャ カルタが1950年に2百万人に激増したことを重く見て積層住宅の必要性を市民に訴え た。しかし市議会はその意見に関心を示さず、庭付き住居を持って庭いじり土いじりをす るカンプン型ライフスタイルを理想にしている一般市民の心情に固執し、市長のアイデア に揶揄をもって応じた。議員の中に「上の階の住人が小便をすれば下の階の住人が濡れる」 と発言した者があったそうだ。 スディロ市長の先見は二十数年後にスハルト大統領が実現させた。スハルトは国民住宅政 策でシンガポールが示した実績に競う姿勢を見せ、国民住宅建設公社Perum Pembangunan Perumahan Nasional (Perumnas)を設けて全国各地に巨大な住宅地区を作らせ、国民庶民 層に住宅の供給を行った。ただしプルムナスが造った住宅地の中を埋めたのは積層住宅で なく、小さい庭を持つ長屋棟の並びの方が圧倒的に多かった。積層住宅は、首都圏ではク レンデル・チビノン・タンジュンバラッ・カリドゥルス・チュンカレン・パサルジュマッ、 地方部ではメダン・バタム・スラバヤなどに建てられた程度だった。 全国各地にプルムナスが作った広大な住宅地区は長屋棟の並ぶ街並みが大半で、たいてい 前庭や裏庭が付属していた。60〜72平米の敷地に床面積36平米の家屋、あるいは9 6平米の敷地に床面積45平米の家屋というのが標準タイプになっていて、価格はたいへ ん廉く、中古車を1台買う程度の金でそんな新築住宅が数軒買えた。 タナアバン地区クブンカチャンにできたインドネシア最初のルスンの居住者になったイン ドネシア人たちはヴァーティカルコミュニティライフを初体験したインドネシア人という ことになる。かれらのコミュニティ生活心理はホリゾンタルコミュニティと異なる様相を 帯びたそうだ。 クブンカチャンアパート群を建てたプルムナスはルスン生活で守らなければならない決ま りを全居住者に配布した。 *窓から絶対に何も捨ててはいけない *子供を階段で遊ばせないように親が指導すること *ラジオやテレビの音量を小さくする *屋内に置かれる物の重量制限 等々 居住者たちは最初、真剣にそれらの決まりを守っていた。みんなが初体験なのだから、も しかして良くないことが起こってはたいへんだ。ところが何年も何年も経過するうちに、 決まりを破ったところでたいした事件にならないという経験が加わって来ると、自己快適 を優先する傾向が生じ始めた。[ 続く ]