「スカルノのジャカルタ(6)」(2026年01月26日)

ビスホプスプレインの向い側で、ナッソーブルファルをはさんで対座している建物は最初、
フリーメーソンの本部と集会場Vrijmetselaarslogeとして1925年に建てられた。ビス
ホプス市長がフリーメーソン会員だったから、メンテン公園都市センターはフリーメーソ
ンというキーワードで企画されたという視点も成り立つかもしれない。当時はその建物を
Logegebouwと呼ぶひとびとも多かったようだ。

オランダ東インドにおけるフリーメーソンの政治的社会的な位置付けはそのようなものだ
ったのである。フリーメーソン会員と言われている人物が総督に就任したこともあった。
しかしインドネシア独立後スカルノ大統領がフリーメーソンを非合法団体にした。

オランダ時代にはフリーメーソン会員がその建物でしばしば扉や窓を閉め切って心霊的な
集まりを催していたことから、プリブミの多くはそこをloji setan (devil's lodge)とい
う名前で呼ぶようになった。そこが建てられる前にフリーメーソン館はヴェルテフレーデ
ン東北端ブロックのVrijmetselaarwegとKomediebuurtの角地にあった。現在の道路名称で
あるJl Budi UtomoとJl Gedung Kesenianが出会う角地のKimia Farma本社ビルがそれだ。
その建物もかつては悪魔館と呼ばれていたのである。

ヴェルテフレーデンの悪魔館はプリブミが物語る種々の怪異譚の舞台になった。戦後のジ
ャカルタ中が荒れ果てていた時期のある日、どこを通ってやって来たのかわからないが植
民地時代の盛装である白色スーツに身を包んだオランダ人がひとり、円柱のある表のテラ
スから悪魔館の中に入って行くのを離れた場所にいたプリブミが目にした。そのとき、そ
の目撃者は館の中で群集が発する喝采のうねりと拍手を耳にしたのである。

空き家になっているあの建物に大勢の人間が集まっているとかれは思った。何をしている
のだろうかと好奇心に駆られてそのプリブミは自分も悪魔館の表テラスまで行った。そこ
でかれが見たものは・・・・

半ば崩れかかっている空き家の建物のシンと静まり返った姿ばかりで、建物の中には人っ
子ひとりいなかった。


1966年、G30S事件を決着させるための特別軍事法廷がメンテンの悪魔館で開かれ、
スバンドリオ外相やオマル・ダニ空軍司令官が裁かれた。翌1967年にBAPPENAS国家開
発企画庁がその建物で業務を始めた。今でも国家開発企画省/国家開発企画庁として国家
行政に重要な位置を占める機関の本部建物の役割を果たしている。

その隣にあるパウルス教会は1935年に建築が開始されて1936年に完成した。最初
Nassaukerkと命名されたのはナッソーブルファルに面していたためだ。それまで離れた場
所の教会へ通っていたメンテン公園都市住民たちがそこに集まるようになった。今パウル
ス教会に所属する家庭数は8百あると言われている。この教会尖塔の屋根の上に風見鶏が
据え付けられており、Gereja Ayamニワトリ教会の別名を持つ教会がバタヴィアにもうひ
とつできたということになる。

パウルス教会の西隣にある建物が1992年11月24日にオープンした独立宣言起草博
物館だ。1927年ごろに建てられたその建物は1931年になってオランダの保険会社
ニルメイが使用し、その後イギリス総領事の住居になった。日本軍政期には海軍武官府長
官である前田精少将の公邸になり、少将がスカルノたちに独立宣言起草会議の場所として
自邸を提供したので、1945年8月16日の夜から17日の未明まで、その屋敷の周辺
を多数のインドネシア人が取り巻いたという話が語られている。1950年から1981
年までイギリス大使がそこに住んだ。


そんな外交官・大臣・経済人・富裕者、そして共和国時代には大統領までが住むエリート
住宅地区だったメンテン公園都市の息吹は1970年代前半でもまだ感じられたが、わた
しがジャカルタで暮らし始めたその時期のジャカルタナンバーワン住宅地区の王冠はすで
にクバヨランバルに移っていて、メンテン地区は栄華の頂点を極めたあとの黄昏期という
趣を見せていた。華やかだった満開の花びらが散ったあとの侘しさに例えることができる
だろう。しかしメンテン地区に与えられた贅沢さが醸し出す底力は十分に感じられ、それ
がクバヨランバルの乗り越えられないハードルになっていたように思われる。

クバヨランバルも十分に豪華な公園都市であることは疑いようのない事実だが、街に持た
された余裕が発散する重厚さという点でメンテンには位負けしていたようにわたしには感
じられた。[ 続く ]