「スカルノのジャカルタ(7)」(2026年01月27日) インドネシアの高名なファッションデザイナーのひとりでバティッ布というインドネシア ローカル伝統文化の産物を国際舞台に押し出すことに多大な貢献をした1935年生まれ のイワン・ティルタは、メンテン公園都市の思い出をこんな風に語っている。かれはイン ドネシア大学法学部を卒業して米国イェール大学で法学修士の肩書を得た知識人エリート であり、米国の国連本部で働いた経歴を持っている。 東ジャワのマディウンに住んでいたかれの一家は植民地時代にジャカルタに移り、メンテ ンのMampangweg(今のJl Teuku Cik Ditiro)72番地に居を構えた。ゴンダンディアか ら南の西バンジルカナルまで南北を貫通する道路がマンパンヴェフだ。イワンのメンテン に関する記憶は日本軍政期から始まっている。 日本軍政期に西バンジルカナルに近いレンバン通り・トゥガル通り・チルボン通りの一帯 は有刺鉄線の張られた背の高い竹のフェンスに囲まれて閉鎖されていた。その地区は戦争 捕虜収容所にされて婦女子収容者がその中で暮らしていた。 あるとき、チキニ通りの学校へ徒歩通学していたイワンがその地区の近辺を通っていると き、フェンスの裏側で上がった女の悲鳴を耳にした。警備隊指揮官へのお辞儀の腰が高い ことを不満に思った指揮官閣下がその女性に教育ビンタを張ったのだろうとイワンは思っ た。そのときの恐怖感はトラウマになっていまだに残っているとイワンは述べている。 かれの祖父母がマトラマン通りに近いパスバン通りに住んでいた関係で、かれはマトラマ ン通りに親しんだ。その南往き街道の広さはかれの心に驚嘆をもたらした。マトラマン通 りの中央をトラム線路がジャティヌガラとパサルスネンを結んで複線で敷かれている。通 りの両側には広大な邸宅が並び、そして種々の大型施設が邸宅の間に佇立していた。シン カロルス病院・国立図書館・ジャカルタナンバーワンエリート高校のHBSカヴェドリ。 メンテン地区内のエレガントな大通りはオラニェブルファル・ナッソーブルファル・ファ ンハーツブルファルの三本。それらの大通り沿いの邸宅にはオランダの海運会社や米国の 石油会社の東インド支社長たちが住んでいた。スロパティ公園東南のオラニェブルファル とマディウン通りの角地にはスタンヴァックの支社長邸があった。オランダ大使公邸はか つてジャワ銀行頭取の住居だった。マンパンヴェフとオラニェブルファルの角地はオラン ダの海運会社Stoomvaart Maatschappij Nederlandの支社長邸だったが、エジプト大使公 邸になった。ファンハーツブルファル沿いの邸宅は他の二つの大通り沿いのものより古か ったが、しかし規模はもっと大きかった。そして街路樹や花壇もより豪華なものだった。 イワンの一家はその後、クリケットクラブのあるBoxlaan(今のJl Borobudur)を包含する イギリス人エリアの一角を占めるJl Mendutに引っ越し、そのあとナッソーブルファル8 0番地に移った。今ドイッチェバンクが建っている場所だ。そこはナッソーブルファルの 西端であり、その向こうは湿地帯になっていた。その場所からかれの一家はタムリン通り 建設工事を眺め、ホテルインドネシアが建てられるのを目撃し、ドイツ大使館ができあが るのを目にし、1974年にマンダリンホテルの完成を見守ることになったのである。 それらイワンの体験した歴史的なできごとの中でもっとも劇的なものが1945年8月1 7日のインドネシア独立宣言式典だった。かれは宣言の言葉を聞き、史上はじめて紅白旗 が掲揚される瞬間を目にしたのである。イワン少年は遊び仲間たちとスカルノ邸表広場に 立っている木に登って式典を見物し、その歴史的瞬間を記憶の中にとどめた。 独立宣言式典が行われたスカルノ邸は東プガンサアン通り56番地にあり、ムンドゥッ通 りからその屋敷の庭に入って行くことができた。ムンドゥッ通りに引っ越してからイワン 少年はしばしばスカルノ邸の裏庭を遊び場にしていたのだ。建物はそれほど大きくなかっ たが、庭はとてつもなく広かったとイワンは語っている。[ 続く ]